【第1章】戦争と青春 [第1部]戦争の時代の田舎少年

最後の陸軍予科士官学校61期生[昭和20(1945)年4月〜8月]

厳しい戦局に合わせ先行入学
殿下の区隊に配属される

昭和12(1937)年以降の幼年学校卒業生は、陸軍予科士官学校に無試験で進学できた。当初は中国戦線が拡大傾向にあり、さらに太平洋戦争が始まって2年ほど経つと戦局はますます厳しくなって、兵隊はもちろん将校の総数も不足してきたからだ(いわゆる学徒出陣は昭和18年10月に始まっている)。

通常、陸軍士官学校本科を陸軍士官学校(市ヶ谷から神奈川県座間町に移転。通称は相武台)とだけ呼び、予科を陸軍予科士官学校と呼ぶようになったのは、このときからである。私は61期生としてここに入学することになる。

ただ、私たち61期生の入校はやや変則的だった。

前線における将校の消耗を補うべく大量の生徒を採用したため、昭和19年11月入校の「甲」(1648名)、昭和20年2月入校の「乙」(2700名)、それに続いて、われわれ幼年学校出身者(900名)が昭和20年4月に校門をくぐった(この「甲」と「乙」は入校分類上の記号)。これは、先輩期の60期が航空士官学校や座間の陸軍士官学校へ進学して部屋を空けるのを待ったためである。「甲」は全員航空要員で、「乙」は同年7月の適性検査を受けて合格した者が航空へと編成替えした。

航空適性検査を受けてみると、意外と斜視の者が多く、残念ながら地上兵科に行く者が多かったが、私は幸いにも適性検査「甲種」(こちらは評価ランクとしての記号。言わば「A」である)で、戦闘機に乗れる資格が得られ、鼻高々だった(この件は後述する)。

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予科士官学校は昭和16(1941)年9月に埼玉県朝霞町に移転していた(もとの所在地は市ヶ谷。朝霞での通称は振武台)。前年の昭和15年に東京ゴルフ倶楽部朝霞コースを接収して、700日の突貫工事で完成させたという代物だ。生徒舎は木造で諸設備も戦時体制そのものだったが、ゴルフ場の白いクラブハウスが残されていて食堂となり、高名なゴルフ場設計者、チャールズ・ヒュー・アリソンの手によるグリーンの上に皇族舎が建っていた。

この皇族舎の近くに亭々とそびえる立派な松の木と、深い砂場(実はアリソンバンカー)はいまも印象に残っている。思えば、もともとゴルフ場だったということも、ずっと後の私の人生との因縁を感じる。

私の配属された第1中隊の3・4区隊には、東久邇宮ひがしくにのみや俊彦王殿下が同期で学習院中等科から入校されていた(予科士官学校ではクラスや班編成ではなく、軍隊式に「中隊・区隊への配属」と称した)。

皇族舎はもちろん殿下のための宿舎で、夜の自習終了後に、同じ区隊の同期生が当番制で皇族舎までお送りしたものだ。俊彦王殿下は、敗戦直後に史上唯一の皇族首相となった、東久邇宮稔彦王殿下の第3王子である。

この俊彦王殿下については、いろいろエピソードがある。

確か体操の時間だったと思うが、砂場で空中回転(いわゆるトンボ返り)の練習をしていたときのことだ。私も含めて何人かの生徒がトンボ返りをしてみせると、殿下がこれをご覧になっていて、自分もやってみたいとおっしゃった。幼年学校時代に鍛えられた同期生なら、そんなことは朝飯前だが、学習院から来られた殿下には経験がなかったらしく、すぐにはできそうもないので、私が介助役を務めて、差し出した腕を軸にして回転するようにお教えした。

「殿下、助走して来て、私の腕の下に手を入れて、クルッと回転して下さい!」

殿下は、「よし、わかった!」と力強く声を上げ、砂場をめがけて助走し始める。

ところが、である。私の腕の下に手を入れたのはよかったが、頭から砂場の砂に向かって真っ直ぐ勢いよく飛び込んでしまったのだ。私は一瞬、砂の中に頭を突っ込んでいる殿下の後ろ姿を呆然と見入ってしまった。だが、次の瞬間、「大丈夫ですか殿下!」と口にしながら、私と何人かの学友が砂場に駆け寄った。

すると殿下は、砂だらけの頭を振り払いながら、苦笑いしておっしゃった。

「トンボ返りというものは、なんだか痛いものだな、伊室」

その日の午後、この“事件”を知った区隊長のH大尉に呼び出され、次のような叱咤の声を浴びせられてしまった。
「『竹の園生』の御身を何と心得ておるか!」

戦前に敎育を受けた人でないと、この意味はわからないだろう。「竹の園生」(正しくは「たけのそのう」と読む)とは、中国の故事に由来する言葉で、皇室の異称を意味した。

H大尉は、東京幼年学校の38期、私たちの8期上の先輩である。つまり、他の中学や地方幼年学校の卒業生から東幼の後輩を贔屓ひいきしたと見られてはよろしくないという立場である。なので、何かにつけ、同じ東幼卒の先輩として後輩である私を頻繁に、しかも厳しく叱咤するのだ。

とりわけ、俊彦王殿下に何らかの失敗があった時には、「お前がしっかりお支えしないから殿下が間違われるのだ!」という風に、普段よりきつく叱られた。やはり皇族は別格だったのである。

あまり爆弾を落とさなかったアメリカ軍爆撃機
わがチームだけがエンジン音を轟かせた理由

昭和20年に入ってからの帝都全域は何度も空襲を受け焦土と化していったが、3月10日の東京大空襲では10万人以上の死者を数えた。

しかし、朝霞の予科士官学校には何故かB29は焼夷弾を落とさなかった。一度だけ割りに低空を飛んできたB29がトントントンと爆弾を落としたことがあり、防空壕で生き埋めになった犠牲者が出たが、大方は朝霞の上空でUターンして帰って行った。

これは後で知ったことだが、彼らは朝霞の予科士官学校を残し、それを占領後の駐留地として利用するという計画を立てていたようだ。その後、実際に朝霞はアメリカ軍のベースキャンプとして活用され、さらに自衛隊の朝霞駐屯地として生まれ変わっている。

幼年学校は陸軍の幹部将校を早期から純粋培養する学校である。中学のように一般教科も教えるが、さまざまな軍事敎育・教練に重点が置かれる(見方を変えれば、ある種の“洗脳教育”とも言える)。中学卒業者に比べて、3年も早く軍隊の教練や知識を積んできているのだから、予科士官学校の敎育現場で優位に立つことも少なからずある。

すると幼年学校卒業組の中には、3年の違いを嵩に来て中学卒業組を見下したりする者が出てくる。教科においては優秀な生徒も多い中学組は、当然のことながら、幼年学校組に対して反発する。実は、士官学校では、予科でも本科でも、そんなことが原因で幼年学校組と中学組が対立することがあった。

そういう事態を見越してのことだろうか、東京幼年学校の湯野川校長は東幼在学中に私たちに向けて厳しく言明されていたことがあった。それは次のような教えだ。

「お前たちは、予科に上がっても、幼年学校出身であることを決して鼻にかけてはならない。中学出身者に対して絶対に威張ったりせず、何ごとも親切に教えてやれ。いいな!」

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湯野川校長の言葉は私たち東幼生徒には絶対であるから、予科士官学校に入ってからもこのことは肝に銘じていた。

そういえばもう一つ、少しばかり愉快なエピソードを思い出す。

6月のことだったか、自動車のエンジン組み立て教育を受けた。大きな講堂にテーブルが並べられ、8名1チームとなって自動車のエンジンを分解した。

取り外した部品は床の上に並べていく。部品の名前は敵性語の英語ではなく全部日本語だ。キャブレターではなく「気化器」、ラジエターではなく「放熱器」と言った。

すべてのチームが分解し終わったところで、今度は「組み立て始め!」の号令で何日もかけて元通りにエンジンを組み立て直すという作業である。私と同じチームの俊彦王殿下は、分解のときは積極的で楽しそうだったが、組み立て段階になると、「伊室、お前たちでやっていいよ」と私たち他のメンバーに任せっきりに。確かに組み立ての方が面倒でむずかしい。

自動車のエンジンを分解してみると部品同士が複雑に絡み合っていて、想像以上に部品点数も多い。当然のことながら、パッキング一つ忘れてもエンジンは動かない。

チームごとに知恵をしぼりつつ何とか組み立て、「これで大丈夫だろう」というところで「組み立て終わりました!」と声をそろえる。全チームの組み立てが終了すると、今度は「起動始め!」の号令で各チームが一斉にスイッチを入れる。しかし、大半のエンジンは単にカチッと音がするだけなのだ。

ところが、私たちのチームだけが、唯一、豪快なエンジン音を轟かし、見事に動き始めるではないか。そして、驚きの歓声とともに、満場の喝采を浴びたのである。このときの手作業の喜びと響き渡るエンジン音の印象が、戦後、私を自動車好きに導いていくのだった。

しかしこれには秘密があった。実は前日の私たちの作業後に、助教の下士官がこっそり組み立て直していたのである。わがチームには俊彦王殿下がおられたので、「このチームには失敗させられない」ということだったのだ。この珍事もまた、戦後20年間も経ってから聞いて、大笑いした話である。

ちなみに俊彦王殿下は、戦後、皇籍を離脱され、元サンパウロ領事館未亡人の養子となられ(多羅間俊彦と改名)、ブラジルに移住された。彼の地でコーヒー農園を経営し、ブラジル日本人文化福祉理事会の役員を務めるなど、今もご健在である。

志望通り航空兵になれた、が…
敗戦前夜、さまざまな動きがあった

予科士官学校では、入学後の早い段階で自分の志望兵科を決める。その兵科における将来の陸軍将校としての自己イメージをしっかりとつくり、目的意識を持って勉学に励むためである。

陸軍でエリートコースを行く者は、東京幼年学校から士官学校へ行き、兵科は砲兵か騎兵(何と言ってもかっこ良かった)を選択することが多かった。

そして少尉に任官後陸大に進み、陸大を卒業して参謀となる。しかし緊迫した戦況の下では、こんなエリートコースのことなど考えることすらできなかった。

もちろん私は航空兵科を選んだ。その志は、幼年学校を志望した時からのものだ。それどころか、航空志望の思いはいよいよ強くなっていた。戦局の厳しさへの認識が、私の背中を押していたと言っていい。

入校後3か月ぐらい経ったところで(7月)、航空適性検査があり、私は「甲種」合格となった。そして希望通り航空兵科(戦闘機乗りだ!)に選ばれた。この時はさすがに誇らしげな気分になったものだ。もちろんそれは、特攻隊への道をひた走りに走るということを意味していた。

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この兵科決定後、航空兵科と地上兵科(砲兵、歩兵、工兵、衛生など)に編成替えが行われ、航空だけが朝霞に残り、地上兵科は浅間山方面に疎開した。私は、第28中隊第2区隊に配属された。

この編成替えで航空が朝霞に残ったとき、隣にいた戦友が「俺たちはいずれ特攻隊、そう長い命じゃないから時間を大切にしよう。歯を磨く5分間を節約すれば死ぬまでに何百時間も得になる。特攻隊で飛び込むとき、歯がきれいでも仕方ないじゃないか」という珍説に共鳴して、それから歯を磨くのを止めてしまった。心が動く言葉に触れると簡単に感化されてしまう癖は、この時も抜けていなかった。この妙な決意が元になって、戦後しばらく虫歯に悩まされることなる。

相次ぐ編成替えや空襲警報に翻弄され、実際の予科士官学校での生活も5か月ほどしかなかったこともあって、士官学校時代で勉強や訓練に進んで勤しんだという具体的な記憶はあまり残っていない。

ただ、私たち士官学校生徒も、本土決戦体制の一翼に組み込まれ、いざとなれば銃を執って戦う準備をしていたわけだから、自ずと訓練は厳しく、不眠不休の3日間行軍や、爆薬箱を戦車の前に放り込む訓練に精を出したことは確かだ。この訓練のとき、気の毒なことに、急に方向転換した戦車に轢かれて殉職した同期生もいた。そういう悲惨な出来事は決して忘れないものだ。

そして昭和20年8月14日。その夜、消灯後に東幼出身のY君が私のところに忍び込んできて、興奮気味に話し始めた。

「明日、日本は降伏する。われわれ士官学校生徒は、捕まれば銃殺刑になる。どうせ死ぬなら一人でも多くのアメリカ人を殺して死のうじゃないか?」

私は直ちに同意。兵器庫に忍び込み、拳銃と弾丸200発を盗み出し、貯金通帳と両親の写真を胸に、深夜学校を脱柵したのだった。

夜道を延々と歩き、未明に飯能あたりの農家を訪ねて朝食をご馳走になった。農家は総じて早起きであり、士官学校の生徒となると歓迎された時代だ。敗戦を知らない農家の方々からは、親切なもてなしてと「ご苦労さまです。武運長久を!」という激励の言葉をいただいた。

ところが、農家を出発しようとしたそのとき、自分が飯盒を忘れてきたのに気がつき、私一人が学校へ引き返すことにした。「飯盒を忘れたぐらいで」と思うだろうが、本土決戦が持久戦になることも考えのうちだったので、飯盒は武器に次いで大事な装備の一つなのだ。

士官学校に到着し、塀をよじ登って校内に飛び降りたときのことだ。背後からの突き刺すような声で、「誰か!」という誰何すいかを受けた。何と、士官学校生徒が50メートル間隔で歩哨に立ち、不法侵入者を見張っていたのである。「われわれは実弾を込めているぞ!」という叫び声を聞き、私は経験したことのない切迫感を覚え、反抗の術もなく逮捕されてしまった。そして、何としたことだろう、重営倉1日の刑を受けてしまったのだ。

その頃、帝都では、国体護持を連合軍に承認させるまで徹底抗戦を続けるという、陸軍省幕僚と近衛師団参謀の将校たちを中心としたクーデター計画が進行中だった(いわゆる「宮城事件」)。

決起の発端には、航空士官学校の区隊長、上原重太郎大尉が深く関係していた。陸軍省軍務課の畑中健二少佐、陸軍通信学校の窪田兼三少佐、そして上原大尉が近衛第一師団の司令部を訪れ、森たけし近衛師団長に宮城占拠を迫った。しかし、これを拒絶した森師団長を、畑中少佐が拳銃で撃ち、矢継ぎ早に上原大尉が軍刀で斬殺。止めを刺してしまった(「宮城事件」の最初の犠牲者)。そして、将校たちは師団長命令を偽造して近衛師団の一部を動かし、一時、宮城を占拠してしまったのである。

周知の通り、このクーデター計画は未遂に終わったが、当時、陸軍内は血気盛んな本土決戦派が多かった。このことを知っていた阿南惟幾これちか(かつての東京幼年学校校長である)陸軍大臣は、本心では一日も早い和平を望みながらも、混乱を避けるため最後までボツダム宣言受諾に踏み切れなかった(最終的に閣議でポスダム宣言受諾に賛成の後、宮城事件の最中に陸相官邸で自刃)。反乱将校の一部は宮城にも侵入したが、首都の鎮圧に当たった田中静壱東部方面軍管区司令官(大将)に説得され、原隊に復帰した者もいるが、中心的役割を演じた将校たちは宮城前で自決した。

この田中大将には、予科士官学校が係わる後日談がある。

宮城事件は未遂に終わったが、上原大尉らとともに森近衛師団長惨殺現場にいた窪田兼三少佐は、8月15日を過ぎてからも徹底抗戦に同意する仲間を募っていた。そこに予科士官学校の23中隊第1区隊長、本田八朗中尉が呼びかけに応じ、放送局を乗っ取って徹底抗戦を国民に呼びかける行動にでたのだ。さらに予科士官学校の第1区隊60数名が巻き込まれ、8月24日に社団法人日本放送協会(NHKの前身)川口放送所と鳩ヶ谷放送所を占拠してしまったのである(「最後の反乱」として知られる川口放送所占拠事件)。

この事件の鎮圧・収束の責任者が東部方面軍管区司令官の田中静壱大将だった。事件は即日収束されたが、しかし、田中大将は同じ日、司令官室で拳銃自殺によって絶命した。以前から自分の軍管区内である宮城への空襲を許したことに責任を感じており、さらにこの川口放送所占拠事件を気に病んでの自決と言われている。

昭和20年8月29日、陸軍予科士官学校は解散となり、私たち生徒全員は復員することになった。4月の入学以来ほんの5か月の間だったが、帝国日本が沈んでいくその様を、まがりなりにも陸軍内部の空気から感じることができた。

しかしこの敗戦直後、自分たちがめざした陸軍が解体され、士官学校が解散になった瞬間、学友たちの多くは、生きる目標を失って茫然自失した者が多かった。私も、そのうちの一人にすぎなかった。

戦争がもうしばらく続いていたら
東幼の先輩、41期生Yさんの体験

陸軍予科士官学校は、私たち61期生を最後に、その幕を閉じた。この陸士の生活が5か月と短かったこともあるが、敢えて比較すれば、私には幼年学校の学友(46期生)との3年間の比重の方がずっと大きい。

そこで培った仲間意識には、3年もの間、寝食をともにした者同士であればこそ実感できる、掛け替えのなさを強く感じる。ことあるごとに集う機会を作り合い、いまもって懇意な友人関係が続いているのは、そのせいである。

繰り返しになるが、私たち幼年学校46期生は予科士官学校では最後の61期である。もちろん実弾の下を潜ったことはない。しかし、森本秀郎さん(幼年学校の4年先輩の42期生)のレイテ沖海戦での戦死(特攻隊第1号であることは前に述べた)のように、実際に私たちが身近に接した先輩には、戦争末期の過酷な戦闘の中で命を落としていった人が実に多い。

ちなみに、航空士官学校に行った森本さんの同期では、ほぼ半数が戦死している。

私にしても、戦争がもうしばらく続いていたら、戦闘機乗り志望であった以上は特攻隊員の一人として、日本本土近くのどこか海で、敵艦船めがけて体当たりの戦死を遂げていたかもしれない。

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もちろん、無事生還を果たした方たちもいる。しかし、死なずに済んだとは言え、生きて帰ってきたというそのこと自体が、深い「傷」となって残っている人も決して少なくない。

東京幼年学校の同窓であり、5年先輩(41期生)のYさんは、航空中尉として一◯◯式司令部偵察機(愛称は新司偵)に搭乗する機長だった人だ。そのYさんの同期は、任官したばかりにもかかわらず、実にその7割までが戦死している。

Yさんの体験──。昭和20年3月26日に始まった沖縄戦において、Yさんは特別攻撃隊の戦闘機編隊を先導する新司偵に乗っていた。沖縄の近海、敵艦隊に接近したところで特攻編隊から離れ、上空から戦闘状況を見きわめるということが、このときの偵察機の任務だった。特攻機が敵艦に何機当たったか、当たった特攻機が撃沈した敵艦は何隻か、撃沈しないまでも与えた損害はどれくらいか等々、その実際の戦況をつぶさに記録し、帰還後に報告するのが仕事だ。

つまりYさんは、よく見知った部下や仲間が敵の戦艦や空母に体当たりする苛烈な光景の一部始終を、上空を旋回しながらずっと見ていなければならなかった。

そこには、敵艦に“見事”体当たりを果たせる特攻機もあれば、敵艦をめがけるその途上であえなく艦上射撃に撃ち抜かれ、爆発して空中大破する機もある。キリモミしながら海面に激突する者、敵艦まであと一歩のところまで接近しながら海中に消えていってしまう者…。「あの機はあいつだ!」、「あいつが体当りしたぞ!」「だめだ、やられる!」…。自分は戦闘に加わるのではなく、多くの、そしてさまざまな死の形をただただ見ていなくてはならなかったのだ。

その彼の思いは、実戦経験のない私などにはいくらかは想像できても、その実を知ることなどできない。

そして戦後も50年ほど経ったある日、幼年学校の同窓生の集いの折、『再版 東幼外史』(東京幼年学校のエピソード的な校史。平成22年9月28日発行)の編集を仰せつかった私は、Yさんに、「沖縄戦のときのことを書いてください」と依頼した。

しかしYさんは、黙って私と向き合っていたが、しばらくして目を落とし、「話はするが、とても書くことはできない」ときっぱり、しかし静かに言った。いつもはそれほど寡黙ではないYさんだが、その会話以後はさすがに押し黙ったままだった。

Yさんは、サイパン空襲のときも(サイパンからの空襲を知っている人は多いが、サイパンを空襲したことを知っている人は少ない)沖縄戦とほぼ同様の任務に就いている。本土から飛び立った新司偵は、そのときは爆撃機の編隊を先導していた。給油のために一旦硫黄島に立ち寄り、そこからサイパンに向けて飛行を続ける。爆撃機編隊の任務は、サイパン島に上陸したアメリカ軍への空襲である。そしてYさんは、各爆撃機が敵にどのような損害を与え、その損傷はどの程度かを見きわめるために、上空からすべての戦闘を冷静に観察していなければならないのだ。

冷静と言っても限度がある。冷静さをずっと維持したままで、つい昨日まで苦楽をともにしてきた部下や仲間の機が撃ち落とされる様を、ずっと記録し続けることなどできるものではない。任務遂行中も心は大いに揺さぶられ、帰還の最中にも、減ってしまった編隊機の誘導を陰鬱な気持ちで続けなければならなかった。

私がYさんに『再版 東幼外史』の原稿を依頼しようとして断られたとき見たのは、「身近な人間が死んでいくその瞬間をあまりにたくさん見過ぎた」という呟きが聞こえてきそうな、彼の横顔だった

「日本必敗」を予測したわが東幼の大先輩
戦争への分岐点は二・二六事件にあり

今日では、あの戦争について自由に振り返り、考えることができる。しかし、当時は戦争の良し悪しを考える余裕すらなかった。

戦後、『赤甍』(東京幼年学校46期生50年史。平成6年8月20日発行)と『再版 東幼外史』という東幼の校史をそれぞれ編集する機会に恵まれ、陸軍幼年学校の多くの先輩たちがあの戦争に大きく係わっていたことを以前より増して強く感じるようになっている。

日独伊三国同盟締結の立役者で当時の駐ドイツ全権大使、大島浩中将、太平洋戦争を始めたときの総理大臣、東条英機大将、彼らはいずれも東京陸軍幼年学校の3期生だった。

一人は日米の対立を深刻化させる大きな要因の一つをつくり、もう一人は、まさにその対立を戦争という形で突破しようとした将軍だった。日本を戦争へと駆り立てる役割を担ってしまったこの2人は、敗戦後、東京裁判ではA級戦犯としてともに起訴され、周知の通り、東條大将は絞首刑、大島中将は終身刑という判決を受けている。

幼年学校の大先輩では、もう一人、東幼6期生(陸士21期生)の飯村ゆずる中将のことを思い出す。彼は昭和16年1月に参謀本部総力戦研究所の所長に就任し、その8月、日米が戦った場合の綿密なシミュレーション(いわゆる「総力戦机上演習」)の作成を指揮した人物である。このシミュレーションの最終結論は次のようなものだった。

「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」

要するに、「日本必敗」の結論が導き出されたのだ。ところが、当時の東条英機陸軍大臣(第3次近衛内閣)は、これを「机上の空論」として一蹴したのである。

私は、「必敗」とわかっていた戦争をなぜ始めたのかと、その愚かさを悔いる。

私は歴史家ではないから、客観的な歴史評価をする立場にはない。しかし、個人的な考えとして日本が行った戦争に関してはもう一つ思うところがある。

それは昭和11(1936)年の二・二六事件のことだ。この事件の処理の誤りが、後の戦争、つまり「負けるとわかっていて行った戦争」を大きく後押ししてしまった、と私は考えている。

二・二六事件の中心にいた、いわゆる皇道派の青年将校たちの中には、東幼はもちろん、各幼年学校卒、士官学校卒と、純粋に陸軍の敎育機関を経てきた者たちが多い。陸軍でエリートコースをめざすなら、その後に陸軍大学校を出て、参謀、あるいは陸軍省の軍事官僚に上りつめるというのが基本だ。

しかし、この青年将校の一群は、上官から陸大への進学を勧められても受け入れず、軍事官僚という頂きを夢見るような連中ではなかった。そうではなく、進んで農村出身の兵たちと交わり、自分から第一線の現場に留まって、隊付将校として兵とともに汗をかくことを旨としていた。彼らのこの志と感受性が、当時の東北農村の疲弊に対する深い義憤と問題意識を喚起し、政財界の腐敗を糾すための「蹶起」の根底にあったと考えていい。

青年将校たちにとって、政治の腐敗を招いているのは、天皇の側近くに仕えている政府中枢の者たち、すなわち「君側の奸」だった。だからこそ彼らは、内大臣や内閣、官僚などを武力で一掃し、天皇の親政を実現することによってこそ「昭和維新」を全うできると考えていた。

一方で、『日本改造法案大綱』を書いた北一輝の影響もあったされているが、それは中心的な青年将校の一部に対するものにすぎなかったと、いまでは考えられている。ただ北は、腐敗した日本を「改造」するのはクーデターも辞さないという考え方を持っていたため、それが彼らを突き動かしてしまったのかもしれない。

ただ、改めてこの『日本改造法案大綱』を真摯に読み返してみると、当時の政府からは「危険思想」と見られていたものだろうが、意外に面白いことが見えてくる。北のこの著作には、基本的人権尊重、言論の自由、普通選挙、男女平等、私有財産への一定の制限、農地改革、財閥解体、華族制の廃止、皇室財産削減など、まるでGHQによる戦後改革や憲法草案の中身を先取りしているようなことが記載されているのだ。

ところが北は、青年将校に蹶起の指令を出したわけでもないのに、特設軍法会議によって罪名を「叛乱罪(首魁)」とされ、弟子の西田税(元陸軍少尉)とともに処刑されてしまったのである。『日本改造法案大綱』にあのような卓見を記していた北一輝をなぜ殺してしまったのか? いまさらながら悔やまれる。

結果的に青年将校らの「叛乱」として鎮圧された二・二六事件は、その後、青年将校たちの属していた皇道派の壊滅に向けて、敵対する統制派によって徹底的に利用されることになる。

無論、統制派主導による軍法会議によっては、ことの本質は解明されるはずもなく、単に「血気にはやる青年将校が不逞の思想家(つまり北一輝だ)に吹き込まれて暴走した」事件として新聞などに公表された。軍法会議では16名の将校、そして北と西田に死刑判決が下り、それぞれの処刑をもって事件の幕は降ろされた(ちなみに、将校2名が「叛乱」鎮圧前に自決している)。

しかし、統制派はその後も、陸軍中枢から皇道派を徹底的に追い出す策を採った。事件の黒幕と目された真崎甚三郎大将をはじめ、荒木貞夫大将、阿部信行大将、林銑十郎大将などの軍事参議官は予備役に回された。また、山下奉文ともゆき大将や長勇ちょう いさむ中将など皇道派の多くの俊才は、いずれも戦地の第一線に追放され、ほとんどが戦死か自決、あるいはBC級戦犯として処刑(山下大将のケース)されている。

かくして、反対する者が陸軍中枢からいなくなった統制派は、中国での戦争を拡大させ、負けるとわかっていた米英との無謀な戦争に直進していったのである。

自分に反対する者、異論を挟む者の言い分に耳を傾けないということが、いかに愚かで誤った判断を導くことになるのか、これはどのような状況や場面においても、普遍的な戒めである。