【第1章】戦争と青春 [第2部]戦後復興期を生きる

弾けてしまった大学時代、それも人生の肥やし [昭和24(1949)〜昭和28(1953)年/21歳〜25歳]

私の人生に大きく係る家へ下宿
しかし昼間は野球三昧の日々

めでたく東京大学文科 Ⅰ 類に合格して、最初にしたことは下宿探しである。幸い、旧制静高時代からの友人、東京出身のM君の妹さんと同級生の家(山下家)が駒場(東大教養学部)に比較的近い世田谷区代田2丁目にあり、下宿人を受け入れるという話があったので、早速出かけていった。すると、その山下家のおばさんが、なぜか私の実家のことを根掘り葉掘り聞いてくる。

「あなたのご兄弟は?」と山下のおばさん。

「はい、4人の姉と妹が1人おりまして、一番上の姉は奈良女高師を出て結婚しましたが連れ合いはビルマで戦死。二番目の姉も奈良女高師を出て女学校の教員をしておりましたが結婚しました。三番目は…」と、身上調査に答えるように実家の家族構成の概略をすべて話してしまった。「なんでこんなことまで」と思いながら答えていたので、思わず私も、「ところで、お宅の方は?」と不遜にも反射的に聞き返してしまった。だが、おばさんは率直に答えてくれた。

「一番上の娘は日銀に勤めている人と結婚しております。二番目の娘の夫は戦死したので、彼女はいま三井物産へ勤務しています。三番目の娘は日本女子大在学中、四番目の娘は白百合へ行っていましたが、ちょっと事情がありまして先に結婚。一番下が男の子で、これから中学を受けるところです」

立て板に水という調子で一気に話されたその中身を聞いて驚いた。4人の姉がいて一番下が男という兄弟姉妹の構成は、私と同じではないか(山下家には五女はいないが)。「へーっ!」という顔をしている私に、おばさんは矢継ぎ早にこう問うてきたのである。

「伊室さん、うちの息子が東大付属中学に入れるように家庭教師をしてくださいませんか?」

山下家のおばさんも、同じような兄弟姉妹に育った私に対して、直感的に好感を持ってくれたようだ。私は二つ返事で応えた。「はい、こちらこそお願いします」。

こうして、私の下宿は意外とあっさり決まった。食事付きで月額5,500円の下宿代だった。

ちなみに、この山下家(特におばさん)は、それからの私の人生、私の友人の人生にさまざまな形で係わりを持ってくる。もちろん、このときにはそんなことは予想していない。

旧制静高の修了から東大入試の間に、私なりの精神的エネルギー(勉強のエネルギーではない)を費やしたせいか、大学に入ってから何やら気が緩んでしまっていた。まず受験には落ちるはずはないとは言われたものの、入学した途端に、勉強に熱が入らなくなってしまったのだ。

「薪をたくわえておけ」というあの言葉(敗戦後に『レ・ミゼラブル』の中に見つけたあの言葉だ)を忘れたわけではないが、旧制静高時代に自由の空気を味わってからこの方、私の中で何かが弾けてしまった。何ものにも縛られず、好きなときに好きなことをする。そして、勉強よりも友人と語らう時間が何より楽しかった。さらには、勝手気まま、学生気質そのままに、昼間は野球、夜は麻雀に明け暮れるという生活に没入していった。下宿先の山下のおばさんからは、「伊室さん、ご両親が心配されますよ」とお小言を頂戴することもあったほどだ。

少し話はさかのぼるが、ここで野球について一言述べておこう。

戦時中の伊賀上野には海軍の飛行場があって、戦後も上野の町に居残っていた将校が何人かいた。その中に、甲子園で名を馳せた高松商業出身のピッチャーで、巨人の多田文久三ふくぞう選手(投手、捕手、外野手もこなした器用な選手だった)とバッテリーを組んだこともある人がいて、町の青年たちに野球を教えてくれた。その人の指導でワイルドグーズというチームもつくられ、私はそこで初めて野球というスポーツに触れたのだった。

貧弱なグローブやミットしかない時代だったが、当時、気持ちの重い生活の中にいた私にとって、身体ごと元気さを取り戻せるものと言えば、この野球のほかは考えられなかった。指導の先生が良かったことも手伝って上達も早かったし、我を忘れて楽しむことができた。何より、広いグランドで思いっきり身体を動かす解放感が私を魅了した。

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大学に入ってから野球に夢中になったのも、この伊賀上野時代の野球経験で味わった解放感が忘れられなかったせいかもいしれない。大学1年目の昼間はほとんど野球に熱中する日々が続く。

そこに、1年遅れで例の渡辺文雄(旧制静高の同級生の方だ)が、また、事情があって2年遅れで佐治俊彦が入学してきた。佐治は静高時代に野球部に在籍していたこともあるし、渡辺は何でもこなす器用人だったので、私はすぐに彼らをチームの仲間として引き入れた。高校時代は寮仲間だった彼らは、大学時代には野球仲間として私の記憶に登録されることになる(もちろんそれは“昼間”の顔だ)。とにかく私たちは、駒場でも本郷でも、大学の教室にいるよりもずっと長い時間、グランドで一緒にボールを追い回していた。

野球に夢中になっているとき、もう一人、その後の私の人生に係わりを持つ重要な人物に遭遇している。法学部の同期で、名前を小倉寛太郎という。

彼は、私たちが野球に興じているグランドの反対側でサッカーをやってるグループの一員だった。野球のボールがセンター越えをしてサッカーコートの方まで転がっていけば、彼らが投げ返してくれる。逆に、サッカーボールが私たちの方に来れば、蹴っ飛ばして返す。当時はそれだけの仲で、顔見知りというほどのものだった。

ただ彼は、教養学部の大学祭である駒場祭を創設し、その初代委員長になったことで、既に学内に名前を知られていた。東大で初めて生活協同組合(いわゆる生協)を作った人物でもあり、学生仲間でもその統率力と行動力において一目置かれていた。その後、小倉寛太郎氏と私とは、不思議な縁によって何度かの接点を持つことになる。

麻雀の師匠は後の国鉄総裁だった
法学部進学とともに本郷へ引っ越し

昼間が野球なら、夜は麻雀、とは前に述べた。この麻雀の習得にも面白い経緯がある。ここでは下宿の山下家がその舞台である。

山下家は食事付きの下宿なので、夕飯を食べ終わると下宿生同士でそのまま茶の間にたむろして歓談するのが常だった。入学してそれほど経っていない頃だと思うが、毎晩のように一人の男性(ここではTさんとしておこう)が茶の間に入ってくるようになった。テーブルの一角に座り込んでお茶を飲むのである。

山下のおばさんに聞いてみると、大蔵省主計局に務める若手の役人だという。自宅がさほど遠くないところにあるらしい。そんな人がなぜ学生下宿に上がり込んでくるのだろうと不思議に思ったが、事情がだんだんわかってきた。

当時、山下家の三番目と四番目の2人のお嬢さんが、大蔵省でアルバイトをしていたことがあった。そのとき、日本女子大学に通っている三女のM子さんをこのTさんが見染めたというのだ。しかし、M子さんはその人を気に入っていなかった。

さもあろう。彼は私たちの夕飯後に現れる際、ヨレヨレのワイシャツに無精髭、見るからに風采の上がらないなりをして臆面もないのだ。最初の頃は、私でさえもあまり近づきたいとは思わなかった。山下家の両親も、お愛想にお茶ぐらいは出すが、実際にはあまりいい顔はしていない。

なので、Tさんが茶の間に現れると、シラーっとした雰囲気が漂う。それに気づかないはずもないのだが、ほかに話し相手がいないものだから、たまたま近くに座っていた私に何かと語りかけるようになった。利害関係のない相手だと思ったのだろう。拒む理由もないので、私もいろいろ聞いてみる。するとわかったのは、旧制浦和高校出身で、東大法学部出身ということ。つまり、私たちの先輩でもある。そして驚いたことに、私のすぐ上の姉、末子の夫と旧制浦高の同級生で知っているというのである。そんな妙な縁もあって、Tさんとは急に心やすい会話をかわすようになっていった。

なぜいつもヨレヨレのワイシャツを着て、無精髭のまま現れるのか? Tさんは答える。

主計局は予算編成を行う部署であり、その際、省内に泊まりこんで徹夜で行うことも多々ある。だから、自分の風貌は気にはなってはいるが、帰宅途中にとにかくここ(つまり山下家の食堂)に来て、お茶を一服いただくことによって、仕事の疲れを癒やすことの方を選んでしまう…、お嬢さんの顔も見たいし…。などと妙に率直に吐露することもあった。

そんなTさんがあるとき急に言い出した。

「麻雀をやりましょうか」

しかし私は当時、麻雀のマの字も知らなかった(実は私が入らないと場が成立しなかった)。

「ならば僕が教えてあげましょう」

そう言うとTさんは、麻雀を基礎から懇切丁寧に教えてくれた。私は、実に新鮮な世界への広がりを感じた。ただこれまで経験していなかっただけのことで、私の性に合っていたのだ。それからというもの、ほぼ毎晩の麻雀大会が山下家の誰かの下宿部屋で展開されるようになった。佐治が入学して山下家の下宿人に納まってからは、静高時代の仲間も集まるようになり、麻雀大会の頻度も増し、あっちにこっちに、たくさんの“授業料”が行き交った(まさに “夜”の仲間の素顔だ)。山下のおばさんが心配するのも無理はなかったのである。

さて、このTさんだが、粘り勝ちと言うべきだろうか、驚いたことに、最終的にはM子さんの大学卒業後にとうとう結婚することになったのだ。山下家の両親も、M子さん本人も、彼の人柄がだんだんわかってきて、お互いの理解が進んだ結果だった。その報に接したとき、私たち元下宿人たちが祝福したことは言うまでもない。実は私の麻雀の師匠であるこのTさんは、その後、大阪国税局長、主税局長、官房長、大蔵省次官を経て、国鉄総裁を務めた高木文雄氏である。

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文科 Ⅰ 類の教養課程を終えて3学年から法学部に進むことになり、漠然と外交官になりたいと思って公法学科を選択した。相変わらずの野球と麻雀三昧の生活だったが、頭のどこかに自分の将来を考える隙間はあったのかもしれない。

しかし、法律家になって「国の復興に役に立つ仕事」に就こうという志(あの旧制高等学校に入る前の志)は、このときには既に影を潜めていた。

この学部学科選択に伴ってキャンパスが本郷になるので、下宿も移ることにした。世田谷の代田から本郷までは少し遠かったからだ。こういうとき郷里の地縁というものはありがたい。実家の伝手で、伊賀上野の大先輩、司法次官にもなった大森洪太さんの紹介があり、本郷西片町の川崎家にお世話になることが決まった。この下宿では食事がなく、大学の近くの外食券食堂を利用した。

ただ、私が本郷に引っ越すことになると、山下家で私が下宿していた一部屋が空いてしまう。そこで、今度は駒場の寮にいた若杉和夫が入れ替わりに入ることになった。ともに旧制静高時代からの親友たちだ。このとき若杉には下宿部屋だけでなく、山下家の長男の家庭教師も引き継いだ(私の教え方が甘くなって長男の成績が少し下がってしまったのも原因である)。この若杉もその後、山下家とは深い縁を結ぶことになる。

山下家のアルバムを見て写真の世界へ
父を説得してキヤノン Ⅱ Dを手に入れる

そういう私にしても、山下家とはさまざまな意味で縁を感じるエピソードがたくさんある。

例えば、いまも写真を大切な趣味の一つとしている私だが、実はその最初のきっかけは、山下家のアルバムを見せてもらったことにある。

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それは昭和25(1950)年の年末だったか、下宿の茶の間に行くと、山下のおばさんが分厚い写真帳を懐かしそうに眺めているところに出くわした。見ると、昔の家族写真や旅行先でのスナップ、折に触れての記念写真などがいっぱい貼り付けてある。おばさんは、「これは一番上の姉が生まれたときの。こっちは二番目の子の入学式。これは家族みんなで明治神宮に参拝したときの」と、さも楽しそうに説明してくれるのだ。

そのとき、「写真って、いいものだな」と私は素直に思った。そう思うと、途端にカメラが欲しくなったのだ。しかし、月の下宿代が食事付きで5,500円の学生に手が届くはずもない。そこで、手持ちの金やら知人友人から少額の借金やらを束ね、何とか集めた代金で、二眼レフのマミヤフレックスを買うことができた。そして手当たり次第に写真を撮りまくったのだ。

ところが、どうしてもうまく撮れない。二眼レフは慣れるのにはそれなりのコツと技術が必要だとわかると、写真雑誌「アサヒカメラ」を購入して研究しはじめた。さらに、フイルム現像、印画紙焼き付けの本も買って研究した。当時は、木村伊兵衛、土門拳、林忠彦といった写真家が続々と世に出てきた時代だ。特に木村伊兵衛の写真は、私の美意識にも合い、秀逸だった。その作品像のいくつかはいまでも脳裏に刻まれている。

あるとき、カメラ雑誌に木村伊兵衛はライカM3を愛機としていると知り、これはカメラが良くないと思い通りの写真は撮れないのだと考えて、カメラ屋に向かった。ところが何と26万円と聞かされて気持ちが萎えてしまった。ここで一旦は諦めかけたのだが、カメラ欲しさの欲望には勝てず、実家の父に何とかすがってみることにした。

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当時、父は、上野市の調停委員をやっていて、お金の絡む民事調停をいくつも経験していた。そのせいもあって、男が大金を持つとろくなことにはならないということを身にしみてわかっていたので、月々の仕送りもきっちり1か月単位でしか送金してくれなかった。とにかく余計な現金をわたしてくれるなどということが金輪際なかったのが、父という人だった。米穀商であった祖父が蓄財を使い果たして身を持ち崩したという記憶も、父のこの実直さの遠因でもあるだろう。

だが一方で、「なぜそれを買う必要があるのか?」ということを明確に述べ、その解答を父が納得したときには、意外と気前よく代金を渡してくれるのだ。

このカメラの一件でも、山下家のアルバムの話からはじめて、「めまぐるしく変化する東京という日本の首都を記録に収めておくことがいかに大切であるか」を説明し、「そのためには絶対にカメラが必要である」と力説した。本当は、ただカメラを持って、とにかく写真を撮りたかったというだけの話なのだが…。

その結果、少し手間取ったものの、父の説得工作は見事成功し、私はカメラ代金を手にすることができた。買ったのはキヤノン Ⅱ Dで、2万5千円だった。本当はキヤノン4SBの方が魅力的だったが、こちらは4万円。性能を比べるとそれほどの違いはないというので、価格から言っても優位なキヤノン Ⅱ Dに軍配を上げたのだった。

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初めてマミヤフレックスを持ったときもそうだったが、このキヤノン Ⅱ Dを手に入れてからも、文字通り手当たり次第に撮りまくった。新宿や日本橋、下北沢といった東京の町並み、あるいは建設中のビルなどといった写真が多いのは、昭和20年代半ばに「めまぐるしく変わる東京」の記録としては貴重な光景かもしれない。父にカメラ代金をせびるために説得した言葉は、決して咄嗟とっさの出まかせではなかったのである。

旧制静高の先輩の経済感覚に刺激され
学生の分際で土地を買う

山下家、特に山下のおばさんとの係わりでもう一つ重要なことを紹介しておこう。それは、まだ学生の身分だった私が分不相応な行為に及ぶ出来事だ。

昭和26(1951)年のことだった。下北沢に住んでいた旧制静高の先輩(申し訳ないことに名前を思い出せない)が、突然、下宿に訪ねてきてくれた。静岡市出身で東大の文学部を卒業して家業を継ぐことになっていたその先輩は、私の部屋に上がり込むなり、床から天井までを見回して、こう言った。

「伊室君、ここの下宿代はいくらになるんだ?」

私は正直に、「はい、食事付きで5,500円ですが」と答えると、先輩はこう続けるのである。

「君は経済感覚がないなぁ。そんなに下宿代を払うなんて、不経済だとは思わないか? いまは明らかなインフレの時代だぜ。僕は下北沢でアパートを一部屋15万円で買って、3年間使って売ったら20万になったよ。文学部出の僕だけど、法学部の君よりは経済については考えてるな」

この話を聞いて、まさに“目からウロコ”が落ちる思いだった。何だかそういう実利的な話を聞くと、私はすぐ感化されてしまう傾向にあるらしい。このときも欲望を刺激されてしまったのだ。私は早速、土地を買うことを考えはじめた。

その頃の東京は、まだところどころに戦災による焼け跡の空き地があって、土地を買いたければ選り取り見取りという状態だった。そこで目ぼしい土地があると、その所有者のところに行って、いろいろ話をしてみる。私も一応は法学部の学生なので、不動産購入に関するそれなりの法律知識がないわけではない。そこで、トラブルが起こらないように、相手にわかりやすく法律の話をするのだが、登記と言うとその段階で相手が拒否感を示すことが多かった。私が法律を知っているとわかると、たいていの場合、相手の地主さんは身構え、結果として難色を示す。普通の庶民にとって法律は複雑で理解することが面倒臭いものだと身にしみて知った。何件か当たってみたのだが、ほとんど事情は変わらなかった。

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そうこうしているうちに、妙なところから話が転がりこんできた。それは下宿先の山下のおばさんがもたらしてくれたものだった。

「うちの親戚なんだけどね、方南町に住んでいたお婆さんが縁側から落ちて怪我をしてしまったのよ。それで、信州の温泉で長期の療養をしたいんだけど、お金が要るわけ。そのために家を売りたいと言ってるんだけど、伊室さんにはいいお話だと思ってね。どうです、買ってくれませんか?」

そのお婆さんには災難の末の選択だろうが、この話はそのときの私にとって“吉報”と言ってよかった。

その土地は110坪の広さで、そこに4畳半2間と台所付きの7坪半の小さな家が建っている。庭には落花生が植えられていて、数羽の鶏が飼われていた。いま考えると、何だかずいぶんと牧歌的なイメージだが、その頃の方南町はまだ田舎の風景そのままの土地柄だった。

しかし、さすがに学生身分で判断するには自信がなかったので、実家の父に相談してみた。その父はさらに、自分の商売のブレーンでもある部下で相場師の小野さんに意見を聞いた。すると、Oさんの相場勘はフル回転し、「それは買いだ!」という結論を導き出したのだ。

そして昭和28年1月、私は4畳半と台所付110坪の土地を45万円で買った。何と学生の分際で、家こそ小さいが(本当にお粗末な家だった)それなりの広さの土地所有者になったのである。

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その年の春、私の唯一の妹、百合子が上京して新宿の文化服装学院に入ったので、この買ったばかりの小さな家に彼女も一緒に住むことになった。さらに、旧制静高時代からの親友、佐治俊彦が遊びにきた折、「どうだ、オレのところに来ないか」と声をかけたら、佐治は「いいのか、そりゃあ助かる」と言って、わが家の下宿人第一号となった(結局は第一号で打ち止めだったが)。私と百合子と佐治という何だか奇妙な同居生活だったが、これがきっかけでわが家は仲間の溜まり場と化し、これがまた楽しかった。

この土地と家は、土地はそのままに、年月を経て、家の方は建て替え建て増しをし、現在のわが家へと至ることになる。

外交官試験に立ちはだかる英会話力の壁
友と別れるのがいやで、郷里での就職を断る

私は、通常よりも3年遅れて旧制高等学校に入っているが、高校を1学年修了で新制大学に入れるようになったので、1年間の旧制高校と4年間の新制大学とで合計5年間で社会に出たことになる。普通は3年間の旧制高校と3年間の旧制大学とで6年間をもって社会に出るのだから、結果的には1年取り戻したことになる。

そんなことを頭の中で考えはじめたのは、昭和28(1953)年4月の卒業を前にして、その前年から就職について考えなければならなかったからだ。年功序列が給与に大きく反映する時代の就職活動では、年齢と学齢との差を意識せざるをえないのだ。この問題は、就職してからも尾をひくことになる。

私たちは学制改革による新制の大学生だったが、旧制大学生の最後の卒業も同じ28年4月なので、同じ年月に新制と旧制が一緒に就職活動をすることになる。いわばお互いが競争相手ということだ。その頃、いわゆる「三白景気」(砂糖、セメント、硫安=窒素肥料といった白モノの製造業が好調の好景気)が終わりつつあり、就職難が始まっていた。

しかも、前年の昭和27年2月20日に東大構内である事件が起きた。本郷キャンパス法文経25番教室で学生による「ポポロ劇団」の演劇(松川事件を素材とした芝居だった)が公演されていたとき、観客の中に複数の私服警官がいることを学生が発見。大学の自治を犯すものとして学生がその私服警官を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせた。その際、2名の学生が暴行を加えたとして、後日、逮捕・起訴されてしまったのだ。

このあおりを受けて、例年は秋に行われていた一般企業の就職試験が、東大だけ翌年(28年)の2月にずれ込むという異常事態となってしまった。いま考えれば、東大だけ就職試験を延期するというのはきわめて特権的な扱いだと言えるが、当時の東大はそういう特別扱いを受けてもそれほど批判を受けることはなかった。

そのような厳しい状況下でも、結果的には私も5つほどの企業の推薦を受けることができたが、同時に、外交官になりたいという気持ちも捨てずにいた。そもそも法学部の公法学科を選択したのは、漠然とではあるが、外交官への憧れに近い気持ちを持っていたからだ。と言って、ただ夢見ていたというわけではない。

時代的には、昭和25(1950)年の6月からは朝鮮戦争が始まっていたし(復興期の日本経済を急激に押し上げていた)、日本を含め世界中が米ソ対立による冷戦構造のただ中に巻き込まれていた。そういった国際情勢の記事を新聞で目にするにつけ、これからの時代には外交官の仕事の価値が高まるのではないかと、自分なりの問題意識を育てていたことは確かだ(あまり勉強熱心ではなかったにせよ、である)。

そこで、外交官試験を受けてみたのだが、ここでも英語が壁となって立ちはだかった。受験に際して私なりの勉強を重ねてきた国際法や国際政治の知識はもちろん問われるが、外交官試験の問題ではヒヤリング力を中心とした英会話力が基本的な評価対象になるとともに重要視されるのだ。

以前にも述べたが、陸軍幼年学校以来ロシア語は学んでいたが、旧制高等学校の受験のためにだけ英語のヒヤリングを短期集中的に学習した以外に、正攻法的な英会話教育をまったく受けていない。高等学校の外国語でも英文和訳ができれば単位は取得できたし、大学の教養学部では英語とロシア語で登録していたので、リーディングさえ何とか及第点を取れれば単位は修了できた。私の耳はロシア語には何とか対応できたが、英語の耳にはほど遠かったのだ。要するに、試験には落ちたのである。

いま振り返れば、英語力の問題だけではなかったと率直に認めるべきかもしれない。勉強量、外交官になるというモチベーションと「欲」において、ライバルたちにはとうてい叶わなかったのだ。なにせ、大学生活の大半は野球と麻雀に明け暮れ、就職活動の一環でにわかに勉強量を増量したというのが実際だったのだから。学生時代の不勉強のツケが卒業の土壇場で回ってきた。

しかし、外交官試験に落ちたにしては、私の気持ちの切り替えは早かった(これは外交官へのこだわりが薄かった証拠でもある)。応募していた5社の企業から推薦を受けることができたので、そこを順繰りに受けてみようかという気になっていた。その5社とは、三井銀行、電電公社、大丸百貨店、安田火災、それに郷里の三重県津市にある地方銀行が加わる。

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この地方銀行は、実家の父が「受けてみろ」と言ってきた会社だった。三重県食糧卸販売株式会社の経営者だった父とこの地銀の頭取が、仕事の上で知己を得ていたのだ。父と頭取との間で、就職後の待遇についても相当に有利なことが約束されていたという。

父にしてみれば、私を郷里に近い津で就職させ、一緒に住めるようになるといいと考えていたようだ。

振り返ってみれば、戦前は14歳からの3年半、戦後には20歳からの5年間(それ以前に4か月ほど京都にいて離れていたが)、たった一人の長男とはずっと離れ離れに暮らしてきた父である。大学卒業後には郷里の銀行に落ち着いて、一緒に暮らしたいと思っていたとしても無理はない。これは身に染みてわかっていた。

なので、正直なところあまり気が進まなかったものの、その父の言葉に従い、この地方銀行に願書を出してみると、まだ試験も受けていないのに、すぐに採用通知が来た。私としてはやや“暖簾に腕押し”の感が否めなかったこともあり、父には悪いと思ったが、この銀行への就職話は断ることにした。

その本当の理由はむしろ私自身の中にあった。旧制高校以来、私は親しい友と一緒に濃密な時間を過ごすことを通して、自分の“心のコミュニティ”が既に東京という土地にできあがっていることを実感していたのだ。もっと簡単に言ってしまえば、郷里に戻ってしまえば、親友たちと別れなければならない…、それが寂しかったのである。

スリリングだった安田火災での面接試験
そして、掛け替えのない青春時代に幕

この頃の就職活動については、一つ特筆すべき事柄があった。前年に東大でポポロ事件があった影響で、「この学生は左翼ではありません」ということを言明してくれる思想保証人が必要なのである。思想保証人の立てられない学生は、就職希望先から門前払いを食わされてしまうこともあった。

いま考えれば、思想信条の自由に完全に反する行為の類だが、当時としては、これが堂々とまかり通った。そしてこの思想保証人は、親戚縁者の中で、割に社会的な信用のある人間に請け負ってもらうことが多かったと思う。

私の場合、母の里に養女に行った三番目の姉、妙子の夫と、四番目の姉、未子の夫に、この思想保証人の役割をお願いした。妙子の夫は大阪の船場の繊維問屋の息子であり、未子の夫は電電公社(日本電信電話公社)で人事部長の役職に就いていた。どちらも、社会的にはそれなりに信用度の高い地位の人物だったから、思想保証人としての適格性を満たしていた。

推薦をもらった残りの4社のうち、最初に受けた三井銀行では、口頭試問でしくじった。「信託というのはどういうことを言うのか?」と問われて答えられたなったことが災いした、と思う。国際法に関することはいくらか勉強したが、金融や銀行に関係する法律は皆目わからなかったのだ。もっとも、一緒に三井銀行を受けた同級生の中に、三井家の親族がいて、これが合格確実という噂を耳にしていたので、いささかシラケ気味だったことも不合格の遠因かもしれない(これは単なる言い訳にしか聞こえないだろうが)。

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そして、その次に受けたのが安田火災(安田火災海上保険株式会社)だった。

この安田火災での入社試験、最終段階の面接での出来事──。当時の檜垣文市社長は、書類に視線を落としながら突然つぶやいた。

「君は、思想的には問題ないでしょうなぁ?」

何という単刀直入な質問だろう。あからさまと言ってもよい。私は、社長の隣に控えている人事課長の視線を気にしながら、特に考えもせず、反射的にこう答えてしまった。

「はい、問題はありません」

すると社長は口ひげをいじりながら、目を通していた手元の書類から私の顔にまっすぐと鋭い視線を向け、追い打ちをかけるように問い直した。一瞬にして人が変わったかのような口ぶりだ。

「問題がないと、どうして言えるんですか?」

こう問われて、「ならば、思想保証人は何のために要求されたのですか?」とストレートな異論を述べてしまえば、「この男は議論を吹っかけるタイプの闘争的な人間だな」と判断される可能性もある。しかし相手のこの質問も無体なものだ。「思想的に問題のないことをこの場で証明せよ」と詰問しているようなものだ。面接の現場で実証的に証明する方法などあるはずがない。

ここは、私という人間を率直に伝えるということが一番大事だと思い、とっさに語気強く答えた。

「私は、暴力で会社をこわすようなことはしません。人の意思に反して無理矢理に大衆動員をかけるような今日の左翼のやり方にも反対です」

実はこのとき思い出していたのは、旧制静高で共産党シンパの先輩からかなりしつこく入党を勧められた光景だった。あの夜の学生寮での先輩のしつこさは、私の身体に反発心を覚えさせるほどのものだったので、そのトラウマによる左翼イメージ対する強い反応のようなものが、この社長面接で期せずして吐出されてしまったのだ。私のあまりにはっきりした物言いに、社長は目を丸くしていたが、隣に控えていた人事課長は、何やら不思議な笑みを浮かべていた。

結論から言ってしまうと、この安田火災の入社試験は合格となった。決して思想的に問題のないことが証明できたわけでもないのに、である。何が合格の決め手になったのか、入社後も確かめることはしなかった。

このほかに推薦をもらっていた会社は2社。この年に初めて大学卒業者を採用することになった電電公社(日本電信電話公社)、そして、親友の若杉和夫が「東京進出で絶対に急成長するから大穴だ」と太鼓判を押した大丸百貨店だった。しかし、この2社の入社試験を受ける前に安田火災に合格が出てしまったので、私はそこで就職活動を終えることにした。

正直なところ、外交官試験に失敗したあと、企業を就職先として選択としている段階では、もはや、「何の仕事をしたいか?」よりも、「いかに給料のいい会社に入るか?」ということに就職の動機が変化していた。「志」よりも将来の生活上の「欲」の方が先行していたのだと言える。

「志」は継続的な意志力と努力によって全うされるが、生活上の「欲」は瞬間的な勘どころによって焦点が定められる。私の本質には(あまり意識したことはないが)、遠くにある目標(つまり志)にじっくりと照準を合わせて進むよりも、至近距離になる“獲物”を瞬時に狙う特質が隠れていたのかもしれない。とすれば、敗戦直後に実家の土地を淡々と耕していたあの“にわか百姓”の経験は、いったい何だったんだろうか? その意味では、自分の本質的な気質を未だにつかめていない。

ちなみに、当時の私が四六時中一緒に過ごしていた2人の親友、佐治俊彦と若杉和夫は、就職に際して、むしろ自分たちの「志」の方を優先させていたのではないかと思う。

若杉は、私に勧めた大丸百貨店の入社試験を受けて内定をもらったが、並行して公務員試験にもパスしていた。

結果として、彼は国家公務員への道を選び、当時の通商産業省に入省して後に審議官にまでなった。通産省退官後も、いろいろな企業、団体の顧問や相談役などを歴任し、現在も石油資源開発株式会社の相談役を務めている。同年輩とは思えないほどの現役ぶりだ。

一方、事情があって2年遅れて入学してきた佐治は、知り合った頃から「新聞記者になりたい」と自分の「志」を明確に語っていた男だ。

当初志望していた朝日新聞が、佐治の卒業年(昭和30年)には新卒者の採用をしなかったため、毎日新聞社と日本経済新聞社を受けて両方とも合格。結局、毎日新聞社を選んだが、その後、新聞記者として縦横無尽の活躍ぶりを経て、常務取締役東京支社代表を務めるに至っている。

沈鬱でもあり右往左往もした敗戦直後の3年間を経て、濃密な友人関係と自由な空気を味わった旧制高等学校から新制大学での5年間──。この間、私の何が変わったのだろうか? それは単なる変化なのか、それとも成長と呼ぶべき「何か」なのか? その「何か」を、この歳にして、未だ言葉によって名付けるには至っていない。