【第1章】戦争と青春 [第1部]戦争の時代の田舎少年

田舎少年が登り始めた階梯[昭和17(1942)年〜昭和20(1945)年/14歳〜17歳]

予想に反し東京へ
父と2人、東幼正門前で最敬礼

陸軍幼年学校への入学決定は、私自身うれしいに決まっているが、両親の喜びも一入だった。当時、幼年学校合格者は新聞に名前が発表されていたので、私の名前は近所中で知られることになった。新聞に私の名前を見つけた父は、「これで、お国のお役に立つことができる」と安堵していたが、気持ちとしては町中を触れ回りたかったに違いない。

父の「肩身の狭い思い」が消えたのだ。米屋の店の者にまで自慢気に新聞を見せ、店中でこの話題を沸騰させていた、と後に母から聞いた。

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陸軍幼年学校は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6校があった。入学試験のとき、そのうちの2校を志望先として書けと指示されたので、私は家から近い順に、第一志望を名古屋、第二志望を大阪にした。ところが、わが家に届いた合格通知には、「東京に入校せよ」とあるではないか。これには驚かされた。理由は皆目わからないが、正式な書類にそう書いてあるのだから、これに従うしかない。

伊賀上野という山国に育ち、なにせ小学校3年生まで海を見たことのなかった田舎少年である(この話をすると、尾道出身の女房はいつも大笑いする)。そんな少年が、14歳に成長していたとはいえ、一足飛びに日本の首都、東京に趣くことになったのである

最初は陸幼合格という昂揚感に浸っていた私だったが、親許を離れる寂しさと“花の都”東京へ行けるうれしさがない交ぜになり、何やら複雑な心境を抱えながら東京行きの準備をしていた記憶がある。

当時、東京陸軍幼年学校はいまの新宿区の戸山にあった(通称戸山台。現在の戸山ハイツあたり)。学校からの指示で、まず近所の若松町に宿泊することになっていたのだが、そこでは親の同伴が許された。

はるばる伊賀上野からまだ14歳の一人息子を送り出すのだから、父が付き添ってきてくれたことは言うまでもない(母や姉たちは、伊賀上野の駅で涙ながらに見送ってくれた)。旅館に着くと、父はおもむろに「学校を下見に行こう」と言い出した。

学校までは徒歩で10数分の距離である。私たち親子はしばらく無言でこの距離を歩き続けていくと、途中、坂道があった。それを降りて行くにつれて、2人の歩く速度が次第に速まっていくのだった。

そして私たちは正門の前に立っていた。門は空いていて、植え込みの先に赤い甍の本部校舎が厳然と建っており、白い壁に菊のご紋章が燦然さんぜんと輝いていた。

ふと見ると、父がその菊の御紋章に向けて(というより校舎全体に)深々と最敬礼をしている。私も促されるように、深々と頭を下げた。そして体を起こすと、お互いが顔を見合わせ、微笑んでいた。父は激励口調で私に言った。

「良かったな、こんな立派なところに入れて」

息子が地方から東京に出てきて、どんな殺風景なところで生きていくことになるのかという、親としての懸念が払拭されると同時に、まさにこのときこそ息子の行く末を心底から祝福してくれたのだった。「良かった良かった、良かった良かった」と、父はその後もしばらく繰り返していた。

そして、昭和17(1942)年4月1日、私は東京陸軍幼年学校に入校した。第46期生として、である。

飛んできたのはセッケン?
靴磨きを怠ったことの末路

軍人養成の学校というので、体罰を伴う厳しいものと覚悟していたのだが、入学式後の数日間は、妙に和気あいあいで居心地がよかった。しかしある晩、嵐は突如として私を襲ってきた。

そのとき、私たち新入生は自習室で夜の点呼を受けているときだった。ドヤドヤと激しい足音がして三年生が気合いを入れにきたのである。

「聞けっ!」という叫び声が周囲の空気を引き裂くかのように轟いた。その声は耳をつんざく気合いを持ち、早口の関東言葉でもあったので、伊賀の里の田舎少年の私には聞き取ることすらむずかしい。ただ、最後の言葉だけは耳に残った。

「ボヤボヤしていると、セッケンが飛ぶぞ!」

その日の昼間、「いいか、わからんことがあったら何でも聞け。わからんことをそのままにしておくことが一番いかーん!」と念を押すように言われていたのを思い出し、田舎少年は早速手を上げて素朴な質問をした。

「セッケンが飛ぶとは、どういうことでありますかっ…?」

すると、あたりから「クスクス」と苦笑が湧く。「んっ、なんだ?」と思う間もなく、鋭い声が私に飛んできた。「おい、出て来い!」。私は「何だろう?」と不安げに出て行く。と同時に、ガーンという音とともに頬が熱くなった。そこまでは覚えているが、その瞬間、何が何やら全くわけがわからなった。

後からわかったが、私が食らったのがまさに「セッケン」の実物だった。私の辞書には、「鉄拳」という恐ろしい言葉は載っていなかったのである。

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入学当初は覚えること、やらなければならないことが目白押しで、あっという間に一日が終わってしまう。

ある晩、指導生徒のTさんから「靴の手入れをしていない者は出てこい!」と声がかかった。こういうときはタイミングというものがあって、ほんの少しでも出そびれると足が動かないものだ。そのときは一日の疲れもあって、果たして磨いたか磨かなかったか、記憶の定かでないことも災いしていた。

最初のうちは、「オレは磨いたよな〜、いや、確かに磨いたはずだ」と自分を納得させていたが、消灯ラッパが鳴り、ベッドに潜り込んでから、にわかに心配になってきた。

当然のことながら、どこの世界でもウソをつくのは一番いけないに決っている。無論、陸幼でも例外ではありえず、それは常に厳しく教えられていた。もし磨いていないのに知らん顔をしていたら、ことは重大だ。

あれこれ不安になりながら思案しているうちに、突然毛布の上から「グラ!グラッ!」ときた。Tさんが横になっている“下手人”(もちろん私)を強烈な勢いで揺り動かしたのである。そして、地底から響く「起きろ!」の声──。いや、怖かったのなんのって、心臓が凍るというのはこういうことだろうと思った。いま思い出しても身震いがする。

靴箱から引っ張り出された泥だらけの私の靴を前に、14歳の田舎少年は屠殺場の羊の如くぐったりと頭を垂れ下げていた。「なぜ言われたことをやらなかったか?」という自問を通り越して、何かが津々と心の中に染み込んでいくような気がした。

そんな日々の過程を通じて、「素直に」「潔白に」「嘘をつかない」と言った、当たり前と言えば当たり前の教えが叩き込まれていく。「あらゆるチャンスを捉えて心の芯に迫る」、それが幼年学校の精神教育だった。

驚くほど丁寧で親身な敎育
当代一流の教官の面々

少年期から陸軍将校になるための勉強をする場所である以上、自分を律するについては、厳しさを要求されるに決っている。

しかし、日本陸軍のイメージについてまわる「鉄拳制裁」などは、余程のことがない限りありえない。むしろ暴力は禁じられていたほどだ。入学直後の私は、まだ環境に慣れずにまごついていたために、その「余程のこと」を犯してしまったのだ。

幼年学校は総じて、完備した環境の下で行われる温かで丁寧な敎育が基本だった。前に記した赤い甍の本部校舎は当時としてはとてもモダンな造りで、その正面右には大きな鳥小屋が、一方の正面左には大きな花壇があった。鳥小屋ではいつも大小さまざまな鳥が優雅にさえずり、花壇にはいつもきれいな花が咲き乱れていた。

男ばかりのむさ苦しいイメージとはほど遠く、むしろその端正でハイカラな佇まいが私たち生徒の心を穏やかなものにしていた。生徒舎にはスチーム暖房と水洗便所が完備しており、そんな環境に不慣れな田舎少年には驚くことばかりだった。

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敎育内容に目を向けると、午前中は学科、午後は体操、剣道、柔道、教練などきめ細かいカリキュラムが組まれ、いずれも一流の先生方から実に丁寧な教えを受けた。

東京幼年学校での語学はフランス語とロシア語のどちらかに振り分けられることになっており、私はロシア語班に編入された。そこで、ロシア語辞典を編纂された東郷正延先生(戦後、東京大学教養学部教授)がおられたし、白系ロシア人のバービッチ先生には、本物の発音を習うこともできた。

このバービッチ先生は日曜日には生徒たちを自宅に招き、「ここにいる時間は日本語を一切使ってはいけない」というルールの下で、さまざまにご馳走してくださった。ロシア料理など見たこともなかった田舎少年は、美味しいものを食べたい一心で、必死にロシア語の単語を覚えたものだ。

驚いたのは、陸軍の学校で本格的な音楽教育が行われていたことだ。教官は後に武蔵野音楽大学学長になられる福井直弘先生で、バイオリンの名手である先生からは直にクラシックの名曲の数々を聴かせていただいた。福井先生の奏でる、クライスラーの「愛の喜び」や「愛の哀しみ」の旋律が今でも耳に残っている。

あるとき、福井先生が欧米諸国の国歌を教えようとした。すると、ある生徒が、「なぜ敵国の国歌など覚える必要があるのですか?」と愚問を発した。そこで先生はこう答えるのだった。

「君たちはいずれ、外国の大使館付武官として海外に出るときがくるはずだ。その国での公式の場で、もし国歌が吹奏されたら必ず威儀を正して清聴しなければならない。しかしその際、その曲が国歌かどうかわからなければ、礼を失するではないか」(「歌えれば、感心もされるだろう」とはおっしゃらなかったが、私は一瞬そう思った)

音楽という世界共通語を会得した先生のこの言葉には確かな説得力があった。

ちなみに、幼年学校の初代の音楽教官は、滝廉太郎を育てた小山作之助(「夏は来ぬ」の作曲者)という人物で、その方の推薦で二代目に就任したのが福井直秋先生(後に武蔵野音楽大学創立)、そしてその息子さんの直弘先生が私たちの音楽教官である。

振り返ると、明治から昭和にかけての日本音楽史を支える偉大な人たちが幼年学校の音楽教育を担っていたことになる。

書道の教官は石橋犀水さいすい先生だった。江戸末期から大正にかけて活躍した近代書道の大家、日下部鳴鶴めいかくの流れを汲む当代一流の書家だ。「筆は立てて書くものじゃ」という教えと先生の個性あふれる語り口は、この歳になっても記憶から離れることがない。石橋先生は、戦後、公益法人日本書道教育学会を設立され、日本の書道敎育の発展に尽力されている。

優秀な陸軍将校を育てる陸軍の中学校
深まる仲間同士のつながり

そもそも陸軍幼年学校というのはどういうところなのか。

始まりは明治3(1870)年の大阪兵学寮から編入された幼年学舎の設立だと言われているが、その後、明治初期の時代変動の中で、さまざまな形態の軍人育成制度がつくられたり解体されたりした。そして、明治30(1897)年、明治天皇のお声がかりで制定された陸軍幼年学校条例によって、陸軍幼年学校という制度がほぼ定着することになる。その目的は、子どもの頃からの早期一貫教育によって優秀な日本陸軍将校を育てることにあった(いわば陸軍専属の中学校である)。

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このとき、明治天皇は、皇族と言えども率先垂範して国を守るべきという趣旨で、皇族の子弟も陸軍か海軍の学校に行くよう命ぜられたので、東京陸軍幼年学校(設立当初は陸軍中央幼年学校と称した)には皇族舎が建てられた。皇族子弟の学友・同窓ともなれば、天覧演習や観兵式、観艦式には、幼年学校の生徒は陪席を許され、御賜のお菓子を頂戴したこともしばしばだった。

当時、10歳代の少年が天皇陛下や皇太子殿下をはじめ皇族に直に拝する機会など、東京幼年学校に入っていなければまずありえない。また、先に述べたように、当代一流の教官・先生方ばかりが教鞭を執っていたのは、学友・同窓に皇族子弟が入ってくることもある、というのが大きな理由の一つとして考えられる。

一流の教官による教科の勉強に明け暮れるばかりが幼年学校の日常ではない。何と言っても育ち盛りの男子ばかりである。身体の鍛錬、健康管理には細心の注意が払われ、朝夕のタワシ摩擦、体操など規則正しい生活によって体力・体質を育むということも、陸幼での重要な課題だ。その他にも、三浦海岸での遊泳演習、山梨県の小楢山での山地訓練、富士山麓で野営をしながら昼夜の擬似実戦を行う廠営演習、あるいは福島県翁島でのスキー訓練など、校外の各所で身体に刻み込む訓練・演習の類をたっぷり経験させられた。

これらは、軍人としての実践的な起居・動作を学ぶ機会としては、厳しいながらも興味の尽きない、しかも楽しさにあふれた学びだったと思う。

このような身体鍛錬と訓練や演習のお陰で、中学時代までは扁平胸で虚弱体質だった私でも、卒業する頃には筋肉隆々、トンボ返りや鉄棒の車輪もこなすたくましい青年に育っていく。田舎少年も少しずつ成長の階梯を手探りで登り始めていた。

こういう多岐にわたる学習生活の中で育まれるのは、やはり仲間同士のつながりの意識だった。24時間寝食や苦楽をともにすれば、おのずと友だちとの気持ちの交流は深まる。

私の場合、入学当時は標準語が話せず(東京言葉は何てハイカラなんだろうと思っていた)、伊賀弁をからかわれては肩身の狭い思いをしていた。

ところが、明石出身で似たような関西訛りの植田弘君が同部屋で隣同士になったので、気兼ねなく接近するようになった。聞けば、実家は私と同じ米屋だと言う。軍人の子弟の多い幼年学校で、家業が同じ米屋とは、「偶然にしても珍しいね」などと会話を交わすうちに心強く思うようになり、すぐに親しくなった。

同じく同部屋の郡富士夫君や、部屋は違ったが、本田尚士君とは、なぜか気が合い、言葉を交わすごとに仲良くなった。さらに、上記したいろいろな訓練や演習を通して、それぞれの友だちが新たな友だちを呼び込み、お互い身体をぶつけ合いながら、気心の知れた仲間になっていく。

訓練や演習の厳しさは、却って仲間同士が助け合ったり、励まし合ったりするきっかけとなり、同期の間柄は一層強い絆で結ばれるようになっていくのだった。

戦後もいまに至るまで、私たち46期生同士の付き合いがずっと続いているのは、少年時代に培ったこの分かちがたい心からの絆の賜物なのである。

校長の教えに導かれて
忘れがたい先輩との交流

入校早々の昭和17(1942)年の前半までは、日本軍はシンガポール、ジャワ、フィリピンなどでの戦いに勝利し、日本中が勝った勝ったの戦勝ムードに沸いていた。私たち幼年学校生徒にも、シンガポールでイギリス軍から押収したチョコレートが配給されたりした。

しかしそのような折、豪放で知られた湯野川龍郎校長(当時大佐)は、月例の講話で「戦況に一喜一憂することなく勉強に励め」と力強く訓示。陸幼の本分は、現状の戦局をどうこうすることにあるのではなく、将来の軍人としての自己像を見据えて勉学に励むことにあることを諭されたのだった。

ところが同じ年の6月、ミッドウェーの海戦で日本海軍が大打撃を受けた頃から、戦況は日増しに厳しくなり、本土空襲も次第に激しくなっていく。幼年学校の校内でも、どこが陥落、どこが玉砕といった話が囁かれ、生徒たちの心中にも波風が立ち始めていた。

湯野川校長は、このときも、「陸幼の本分を忘れるな。お前たちの使命は未来の陸軍を作ることにある」と強く訓示された。それを聞いた私たちは、同年齢の中学生が学徒動員によって軍需工場で旋盤を回しているときも、ひたすら勉強に専念することができたのだった。

余談だが、この湯野川龍郎校長のお姉さんは、山本五十六(最終階級は元帥海軍大将)の夫人である。その縁もあってか、山本元帥の国葬では、白い服を着た水兵が棺を担ぐそのそばに、陸軍大佐の湯野川校長が付き添っていた。

東京幼年学校の校長としては、阿南惟幾これちか少将(当時)も特筆すべき人物の一人だろう。

生徒監を務められたのち、校長としての在任は昭和9(1934)年から11(1936)年の2年間で、私が入学するずっと以前に転任されている。その後、陸軍省兵務局長、同省人事局長を経て中将に昇進。さらに第109師団長、陸軍次官、第2方面軍司令官などを歴任後、大将に昇進されて、終戦当時は陸軍大臣を務められた。その堂々たる経歴以上に、日本陸軍内部でも人格者として知られた一人だ。

その阿南校長作と伝えられるのが、「五誓」と称する東幼生徒の掟だった。私たち生徒は、これを毎日、朝夕暗唱していたので、未だに身体に染み込んでいるほどだ。

一、純忠至誠 生を捨て義を取る

一、淡白にして 喜んで命令に服従す

一、気節に生き 実行をとうと

一、責任を重んじ 功利に超越す

一、質実剛健にして 廉恥を知る

陸幼は大日本帝国陸軍の将校を育てるのが目的の学校だから、「忠誠を尽くす」や「命令に服従する」と言明するのは当たり前とも言えるが、「実行力」、「責任感」、「恥を知る」という徳目を強調されたのは、いかにも勤勉、誠実、道徳を重んじた阿南さんらしい。これは、軍人でなくとも、またどの時代でも、大いに役立つ大事な教えだと言っていいだろう。

陸軍大臣阿南惟幾大将が、昭和20年8月15日未明、ポツダム宣言の最終的な受諾打電の直前に、敗戦に対する陸軍の責任を一身に背負って自決されたことは、誰もが知るところだ。

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陸幼に係る人物でもう一人、阿南・湯野川両校長のようなトップクラスではないが、強く心に刻まれた人がいる。

幼年学校の日曜日は、東京や近郊に実家のある生徒は帰る場所があるのだが、私のような遠方出身者であまり出歩かないタイプの生徒は、日がな一日生徒舎で過ごすことが多かった。するとときどき、何期か上の先輩が母校を訪れて相手をしてくれたりした。その中に、4期上、つまり42期生の森本秀郎という先輩がいた。

森本先輩は航空士官学校在学中で、私たち後輩に飛行機についてのさまざまのこと、航空士官学校のあれこれを、面白おかしく、そして熱く話して聞かせてくれた。はっきりと明言こそしなかったが、身振り手振りを混じえた彼の快活な語り口には、実のところ「オレに続いてくれ!」という後輩への熱いメッセージが含まれていたのだ。

私はこの先輩の思いを受け止めるかのように、「予科士官学校へ上がったら兵科(軍人としての職務区分)は航空を選ぼう」と決め始めていた(それは中学時代の宮本哲也君との約束でもあった)。

しかし、良き人はなぜにこうも早く逝ってしまうのだろう。その森本秀郎先輩は、翌昭和19(1944)年11月27日、レイテ沖海戦において、「八紘隊」の一員として散華。特攻隊第一号として、国のために命を燃やし尽くした。

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戦局いよいよ厳しく
東京陸軍幼年学校、八王子郊外へ疎開す

昭和17(1942)年12月、大本営は、同年8月からアメリカ軍との死闘を繰り返していたガダルカナル島からの撤退を決定した。この間、ガダルカナルでの戦闘に投入された兵士は31,358名。そのうち撤退できたのは10,665名だった。これを引き算すると死者は21,138名となるが、実際の戦闘で死亡した兵士は約5,000名と言われており、残りの15,000名以上はほとんどが餓死(病死もあり)だった。もちろん、このような過酷な死について知ったのは、戦後もずっと後のことだ。

昭和18(1943)年4月18日、連合艦隊司令長官、山本五十六海軍大将、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死(6月5日国葬。戦前では唯一の平民の国葬)。翌昭和19(1944)年7月、4か月に及ぶインパール作戦の大敗。サイパン島玉砕。8月、グァム島・テニアン島玉砕。11月14日、B29による東京空襲…。

このように、ミッドウェー海戦の敗北以後、戦局は著しい下降線を描いていく。私たち幼年学校生徒は、まがりなりにも帝国陸軍の末席に位置していたわけだから、少なからず伝わってくる激烈な戦地の情報に心穏やかならないものを感じつつあった。「戦況に一喜一憂することなく」という湯野川校長のおっしゃることは理解しているつもりでも、この段階にくると「勉強だけしていていいのか?」という思いを吐露する者も少数だが出てきていた。

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そんな状況下で、昭和19年3月、八王子郊外への幼年学校移転の話を知らされる。いつ空襲に遭うかもしれない戸山台では勉強にも専念できないという理由での、いわば疎開である。生徒たちの精神的な動揺を鎮静させる目的もあったと推測される。

全校を挙げて急ピッチで物品搬出作業を進め、大分の積み荷と生徒を乗せた自動車26台を連ねて、八王子新校舎への移転が完了したのが3月20日。同じ日、新校長とし長谷川務少将が着任された。東京幼年学校、最後の校長である。

話は飛ぶが、この翌年(昭和20年)の8月1日、八王子(正確にはその郊外の横山村)の東京幼年学校(通称は建武台)は、終戦間際に大規模な空襲に見舞われている(私たち46期生は既に卒業し、大半が陸軍予科士官学校に在学していた)。通常、空襲を行う爆撃機は地上からの攻撃をかわすために8,000〜10,000メートルという高度を飛ぶが、この空襲では幼年学校を目標に低空飛行で攻撃してきたという。

しかも、使用されたのは通称「親子焼夷弾」と言うもので、いまで言えばクラスター爆弾の焼夷弾バージョンだ。親にあたる焼夷弾本体が炸裂すると、親本体も強烈な焼夷効果を発揮するが、親の中から子どもの発火弾が雨あられのように飛散し、物や人を損傷させる恐ろしい代物。これが陸幼めがけて3万発落とされたというから、低空飛行による攻撃といい、まさに幼年学校は狙い撃ちされたと言える。

この空襲によって、校舎は全焼し、残念なことに10名の生徒と下士官が死亡した。だが、当時の全校生徒が880名だったことを考えると、亡くなった生徒には申し訳ないが、意外に少ない被害とも思える。あとで焼けた陸幼を見舞いに行ったときに聞いた話では、この空襲の際に、I少佐という週番士官が中心となって、咄嗟の判断で生徒全員を避難誘導したという。通常なら「火を消せ」と生徒を動員するところを、「消すな、逃げろ!」と生徒たちを逃したのだ。

戦後、進駐軍がこの八王子校舎の空襲について調査し、このI少佐にも状況聴取をした。その際、「あなたはわれわれの空襲計画をなぜ知っていたのか?」という質問をしたという。「空襲について予め知っていたから、避難できたのではないか。でなければ、もっと多くの死者を出していたはずだ」と考えたらしい。しかし、I少佐はこう答えた。

「その質問は的を外しています。私たちは、あなたたちが落とした焼夷弾には太刀打ちできないとその場で判断したからこそ、帝国陸軍の将来を担う大事な生徒たちを避難させたのです。空襲を予め知っていたわけではありません」

東京幼年学校の教官・指導者たちは、戦局の厳しいあの時期にあっても、それほどまで生徒を大事に考えてくれていた。その意味では、当時の帝国陸軍の軍学校の中でも、きわめて特殊な空間だったと言ってよいかもしれない。

その点、同年輩の男子が選んだ(多くの場合、選ばされた)もう一つの軍学校、海軍飛行予科練習生(通称予科練)とは雲泥の差があったかもしれない。差し迫る戦局に合わせて促成栽培のような敎育をしていた予科練では、教練の異常な厳しさ、過酷さ、あるいは暴力性が存在し、その後の人間としての成長に厳しい影響を与えたケースが多いと聞く。

ところで、なぜ八王子の幼年学校が狙い撃ちされたのか? 「幼年学校には軍人の子弟が多かったから」というのがその答えのようだ。私の同期にも、陸軍大将、東部軍管区司令官、陸軍省報道局長などといった陸軍のエリートや高級将校の子どもが実際にいて、それ以外にも大半が軍人の子弟と言ってもいいほどだった。

つまりアメリカ軍は、軍国主義日本の士気を崩壊させるための一つの戦術として、「子どもが死んだからもう戦争は止めようや」と思わせるように軍人の子弟の多い軍学校の攻撃を考えていたわけだ。しかし実際には、敎育熱心なI少佐らの判断によって、その戦術は成功を見なかった。とは言え、そのとき、帝国日本の崩壊ももう間近に迫っていた。