【第1章】戦争と青春 [第2部]戦後復興期を生きる

自由・バンカラな世界が育む“生涯の友”との出会い [昭和23(1948)〜昭和24(1949)年/20歳〜21歳]

専門学校受験検定を無事通過
晴れて旧制静岡高校に入学

いろいろな出来事に翻弄されたが、意外に充実した京都時代だったのではないかと思うことがある。ほんの4か月ほどにすぎなかったが、私の“初期青春時代”の重要な思い出と言っていい。二つの思わぬ“伏兵”には遭遇したものの、勉強には集中できたからだ。英学塾のお陰で英語の発音の弱点をそこそこ克服できた(「そこそこ」と書くのは、この英語の発音問題にはまだ先があるからだ)。

その甲斐あって、昭和 22(1947)年の秋、12科目の検定試験を一つも落とすことなく、専門学校受験検定(専検)の試験にめでたく合格した。通常の学科試験以外にも書道や図画の実地試験もあったが、書道は幼年学校時代に石橋犀水さいすい先生(日本書道教育学会の設立者)に直に教えていただいていたし、図画は試験前にかなりデッサン(案の定、「人間の左手を描け」が試験の課題だった)の練習を積んていたので、両方とも難なくクリアできた。これで晴れて中学卒業と同等の資格、つまり高等学校受験資格が取れたのだった。

さて、それではどこの高校を受けようかという段階になって、はたと考えてしまった。三高と八高は以前すでに落とされているし、二度目の受験となると記録が残されているわけだから、例の「軍学徒の一割制限」のチェックに引っかかる可能性もある。専検の合格資格を全面に出しての受験とは言え、このカモフラージュが見破られないとは限らないのだ。

と言って、一高は受験レベルが高くて当時の私にはむずかしい。あまり遠い地方に行くのもいやだし…、などと考えた挙句、実家と東京とのちょうど中ほどに静岡高校があることに気づいた。

そこで下見に行ってみると、静岡の街は空襲でほとんどで焼け野原だったが、賤機山の麓にある静高の校舎は戦災を逃れて厳然と建っていて、私はすぐに惚れ込んでしまった。受験の難易度や勉学環境の問題からだけでなく、当時の東京帝大への進学率が、官立の旧制高等学校の中では一高と浦和高校に次いで3番目であることも、将来のことを展望すると一つの判断材料となっていたかもしれない。

入学試験を受けてみると、これが専検に比べてむずかしいとは感じなかった。試験が終了した瞬間に、「これは受かったな」と確信したほどだ。もちろん結果は合格だった。

このとき、復員直後に意気消沈していた頃のこと、文学全集を読み耽っていたこと、父との約束で“にわか百姓”となって汗水流したこと、京都の英学塾のこと、そして二つの受験失敗と二つの恋に破れたこと…、これまでの約2年半にわたる私のジグザグな道のりをしみじみ振り返った。私の「灰色の時代」は終わりを告げようとしていた。

昭和23年の4月、旧制静岡高等学校(以下、静高)に入学。自分の前途は洋々たるものという気分で、門を潜った。

ところが、である。待望の高校生活を満喫しようとした矢先、愕然とするような事実が私を待ち受けていた。教員の中に幼年学校で数学を教わったK先生がいたのだ。例の「軍学徒一割制限」というマッカーサー指令は、当時、絶対的なものだったから、もし軍学徒だった自分の素性がバレたら退学になる。そうなれば、戦後に味わった全ての苦労は水泡に帰してしまうではないか…。わたしは強く危惧した。

授業中は絶対にK先生の顔を見ないように視線を外し、極度に緊張しながら授業を受けていたが、そのせいで、得意であるはずの数学にはあまり身が入らなかった。そこで2学期の試験のとき、とうとう堪えきれなくなって、答案用紙の末尾に「お懐かしゅうございます」と書いてみた。私としては、本心からの表敬のつもりだった。

するとどうだろう。なんと先生は100点をつけて下さったのだ。K先生はとっくに私の存在をわかっていてくれたに違いない。武士の情けと言うべきだろうか、それとも理不尽なマッカーサー指令を快く思っていなかったのだろうか。遂にその真意を聞く機会を逸したが、まさに感謝あるのみだった。以来、数学の授業にはことのほか身が入った。

授業中の思い出にはこと欠かない。まだ入学して間もない頃、規律を重んじるK先生(先ほどの数学のK先生とは別人)担当の国語の時間でのこと。授業始めに出席者の名前を読み上げた終えた直後、S君が教室に駆け込んできた。そこで当然のことながら、先生は彼に問うた。

「君の名は?」

「はい、Sです」

この返答を聞いたK先生の顔色がみるみる変わっていった。既に名簿上のSの欄には、出席の印がついていたからだ。教室中に緊張が走った。と同時に、先生は声を荒らげて言った。

「誰だ! 代弁したのは!」

しばらくしーんとした間合いがあり、おずおずと手を上げた生徒がいた。朗らかでややお調子者のM君だった。M君は悪びれながら偽りなく名乗りを上げたのだから、それほど叱られるものとは思っていなかったはずだ。ところが、さにあらず。K先生は烈火の如くM君を叱責し始めた。

「先生を騙すとは何ごとか! 死んでしまえ!」

あまりの剣幕に教室は静まり返り、異様な空気に包まれた。いたたまれなくなった私は突然立ち上がり、先生に向かって思わず口走ってしまった。正直に自分の罪を認めたM君に助け舟を出したかったのだ。

「生徒に対して『死んでしまえ』とは、教育者としてあるまじきお言葉じゃあないですか!」

すると先生は、「なんだコイツは」という顔をして、興奮ぎみに言い返してきた。

「君は教師に向かって口答えするのか! ウソをつくような人間は生きている資格はないのだ!」

この刺すような大声に、次の句が告げず、思いがけず立ち往生していると、左隣の席にいた原田稔君が立ち上がって援護射撃をしてくれたのだ。

「先生、伊室君の発言は口答えではありません。列記とした教育論です!」

何と言う機転だろう。私の発言は感情が先立っていたのだが、原田君の言葉は先生を鎮静させるためには充分で簡潔な一つの論理になっていたからだ。

K先生の切り替えもさすがだった。原田君の痛烈で明快な反論の意を瞬時に察し、「わかった。この件はこれで終わりにしよう。伊室も原田も座れ」と言い、教科書を片手におもむろに授業を始めるのだった。最前の剣幕はすざまじかったが、既に先生の呼吸は整っており、何もなかったかのように授業を淡々と進めていくのだ。

この「代返事件」の一件があってからというもの、K先生が並々ならぬ情熱を持った教育者であることが次第に判明してくる。先生の国語講義の内容の濃さや充実ぶりは学校中の評判であり、彼の授業に遅刻する生徒などいないという事実。最初は知らなかった事柄がだんだんわかってくると、K先生への尊敬に比例して、私たちは先生から実に親しくご指導いただくことになる。

“裸の付き合い”が生む多くの親友
理論武装のために哲学研究部へ

「代返事件」には副産物もあった。いや、むしろ高校時代の大切な主産物かもしれない。

この一件以来、私を弁護してくれた原田稔君(のち中小企業金融公庫副総裁)と急速に親しくなり、2学期に寮の部屋替えがあったとき、彼と同部屋にしてもらったのだ。

この静高時代、私は「不二寮」という自治寮に入り、これまでに経験したことのない自由を味わった。旧制高校の寮は、軍の学校とは格段に違って自主性を重んじ、優秀な友人から実に新鮮な刺激を受けつつお互いに成長していく、きわめて理想的な教育環境だった。そこで生涯にわたる友人を何人も得ることになるのだ。原田君はその最初の一人だった。

とりわけ寮生活で親交を温めたのは、佐治俊彦君(のち毎日新聞社常務取締役)、芝康平君(のち東京機械製作所社長)、若林孝雄君(医師)、渡辺文雄君(のち俳優)といった面々だ。これに、若杉和夫君(のち通産省審議官)、田口英爾君(のち青東社社長)が加わって、私の高等学校以後の厚い交友の物語が成り立つ。

ここからは、こうした親友たちの「君」という敬称は省略することしよう。タメ口、呼び捨てでないと、何だかよそよそしい感じがするからだ(彼らもそれを許してくれるだろう)。

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特に旧制高等学校の自治寮で寝食をともにする意義はすこぶる大きかった。昭和23年当時、まだ敗戦直後の高等学校の寮の建屋などはおそろしくオンボロ。戸や窓はガタガタで、すきま風が吹き込む実にお粗末なものだった。しかし、そこは何の気取りもない、文字通りの“裸の付き合い”から真の友人関係が培われる世界だ。

しかも日本中が食糧難の時代である。家を離れて生活する高校生にとって、寮で与えられる食事は見事なくらいお粗末で、量もきわめて少なかった。まともな白飯は夢のまた夢…。丼に直経2センチほどのジャガイモが20個ほどしかないという夕食もあった。

しかし、本来は食べ盛りの男子ばかりである。これでは持たないと思い、私は田舎へ帰って米や野菜などを担げるだけ担いで運んだ。それは、誰もが認知する、食料生産地出身者の重要な役割だった。実家から持ち帰る大量の食糧とともに静岡駅に到着すると、飢えた学友たちは歓喜して迎えに来てくれた。もちろん真に歓迎されているのは、私の存在以上に、米であり、野菜であることは明らかだった。空きっ腹が人間関係を大いに近づけたのである。

夜ともなると、この食材を使って料理を作ることが慣例になっていた。寮の夕食だけでは足りないからだ。つまり2度目の夕食である。

飯盒でメシを焚くことは幼年学校時代にマスターしていたが、最初の頃はおかずの作り方がわからなかった。そこで、帰省したとき、女子高等師範学校の家政科を卒業していた二番目の姉(寛子)にいろいろメニューを作ってもらい、そのレシピも書いてもらった。寮には台所も炊事設備もなかったので、隣室との間にある土間に七輪コンロを置いて簡単にできるものでなければならない。それがカレーライスだった。

飯盒の蓋をフライパン代わりにして小麦粉を炒め、カレー粉を加えてルーを作る。飯盒でジャガイモ、タマネギ、ニンジンなどを水炊きし、煮上がったらカレールーを入れ塩で味を整える。予め炊いておいたご飯にこのカレーをかけ、寮の仲間に振る舞うのだ。

この間、私以外の男子どもは、炊事経験のないものが多いので、寮の壁板を剥がし取ってきては七輪の燃料にする、言わば雑兵の役割を果たしてくれた(私はさしずめ炊事班班長。主計将校ほど上位ではない)。

もちろん寮生全員には行き渡らないから、同室の原田、土間で繋がる隣室の佐治と若林ぐらいには必ず“配給”。ほかは早い者勝ちなのだが、カレーの臭いが漂い始めると必ずどこからともなく渡辺文雄が私たちの部屋に入ってきて、ものも言わずに文字通り黙々と食べ続ける。彼は常に胸のポケットにフォークを忍ばせているので、とにかく素早かった。

遠い実家から苦労して運んできた食材である。私が「もう少しゆっくり味わってくれよ」と言うと、「ボリューム、ボリューム」と言い返しては早食いするので、それ以来、彼の渾名は“ボリューム”となった。味は二の次で、腹をいっぱいに満たすだけのボリュームを確保することが、何より先決の時代だったのだ(この渡辺文雄は、その後、「くいしん坊!万才」というTV番組に登場するのだから、人生は面白いものだ)。

この“2度目の夕食”が終わってひとしきりすると、通常は議論大会が始まる。

一つの部屋に何人もの生徒が集まり、最近読んだ小説の話から人生論や哲学に及ぶ談論風発が夜中まで続くのだ。夜明けに及ぶことも多々ある。寮生だけでなく、下宿通学の田口が加わることもあった。

この寮での夜通しの議論大会は、高等学校での伝統文化のようなものであって、入学当初には先輩たちによる論戦の通過儀礼が私たち新入生に施される(説教ストームと称していた)。

その中身は、「君は何のために生きているのか?」、「何のために学ぶのか?」という問いかけに始まり、哲学書や文学書の解釈合戦・引用合戦へと展開する。それに対する新入生の受け答えは、ご多分に漏れず、未熟な論調ばかりだが、先輩たちの挑発に乗せられ、唾を飛ばし合い、声高になり、果ては胸ぐらをつかみ合う熱い論戦へと突き進むこともあった(いま考えれば、ある種のスポーツのようなものだったかもしれない)。大抵は知識豊富な先輩たちにやり込められて答えに詰まることになるのだが、私はこれが悔しくて仕方がなかった。

ところが、佐治や原田のような中学4年修了で高等学校に入学してきた優秀な生徒は、中学時代に積み重ねてきた圧倒的な読書量によって、議論を投げかけてくる先輩を見事に論破してしまうこともある。軍学校時代にそんなに本を読んでこなかった私などは、気持ちの上では佐治たちを応援しつつ、その論戦を固唾を飲んで見守るしかなかった。

それ以来、「なるほど、要は読書か」と思った私は、理論武装のために哲学研究部というサークルの門を叩き(単純な発想だったが)、カント、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバー、三木清等々と読み進めた。とは言え、三木清のような日本の哲学は比較的スムーズに頭に染み込んでくるが、難解な翻訳文の西洋哲学には歯がたたないものも多かった。

しかし面白いもので、理解に難渋する数行を何度も何度も読み返したり、先輩や友人と「ああだこうだ」と会話したりしているうちに、ある瞬間にピカッと閃き、その文章の意味がストンと腑に落ちてくることがある。一度この快感を味わうとその先をもっと読みたくなり、理解が進むとほかの誰かと議論がしたくなって、夜の寮生の集いが待ち遠しくなるのだった。

「未熟さ」が取り柄の青春群像
蛮勇を奮う“豪の者”

夜の寮生の議論大会に、同級生だけでなく、先輩たちがなだれ込んでくることもあった。その大半が共産党のオルグで、パルタイ(党)への勧誘がその主流を占めていた。彼らの説得論理はこうだ。

「同じ年頃の青年たちは、みんな工場で油まみれで働いているのに、こんなところでのうのうと勉強なんかしていていいいのか?」

「共産党に入れば、そういう貧しい人たちを救えるんだよ。入党しないか?」

のうのうと勉強しているのはその先輩たちも同じではないかと思ったが、彼らの言い分にはうなづけるところもあった。

戦後の混乱期の中で、貧しさのために働き詰めに働かざるをえない同世代の若者のことを、気にしていないと言えばウソになる。それを考えれば、自分たちはもっとしっかり勉強して、彼らを貧困から救い出す方法を考え出すべきではないか…。

いま思えば傲慢な考え方ではあるが、まだ稚拙な社会通念しか持ち合わせていないせいもあって、次第に先輩たちの言うことが正しいかもしれないと洗脳されかけた瞬間もあった。しかし先輩たちがあまりにしつこく「入党しろ、入党しろ」とオルグするので、最後には辟易して口を利く気にもならなくなってしまった。彼らの説得工作がもう少しうまかったら、その後の私もどうなっていたかわからない。実際、彼らの考え方に共鳴して入党し、その後、党幹部から政治家になった寮生もいたからだ。

考えてみれば、稚拙な社会通念どころか、まだ世の中のあらゆる生活実感に疎いうえに、何ごとについても経験の薄い若輩者だった。だが、その「未熟さ」は取り柄だったとも言える。

例えば、小説を読んでいて、酒に酔う場面に出くわしても、その「酔う」ということがどういう感じなのかがわからない。単純な話、酒を飲んだことがなかったから当然のことだ。そこで、「飲みに行こう!」と、好奇心ばかりが勝ってしまう仲間2人と連れ立って、夜の静岡の街はずれに出かけていった。

当時、屋台でも普通に出していたバクダン(薬用メチルアルコールを水や粗悪な酒で割った密造酒)という酒があったが、屋台のオヤジによればそれが一番安いというので飲んでみることにした。しかし、バクダンは無色透明の液体だから(色がついていれば事情は違ったかもしれない)、実際に飲んだことのない未経験者にはその威力を想像できない。

「何だこんなもの、水じゃないか!」

そう口走って、立て続けに3杯も飲んだのは、私ではなく、万事積極的なS。それを見た屋台のオヤジが、目を丸くして心配していた顔が忘れられない。もちろん私もせっかくだから一口飲んでみたが、もともと酒の味を知らなかったのだから、「何てまずいんだ」とそれ以上はやめてしまった。

試練はそれからだった。屋台から出ようと立ち上がった途端に、バクダン3杯を急にあおったSがぶっ倒れてしまったのだ。「大丈夫か?」と抱き起こしたが、完全に目を回して立つことすらできない。仕方なく、W君とフラフラになったままのSを寮まで担いで帰ったのだった。

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こういう突飛な話は酒のことばかりではない。旧制高校と言えばバンカラなイメージが付きものだが、けっこうな蛮勇を奮う無茶な寮生も少なくなかった。

ある日の晩、進駐軍の門に掲げてあった「連合軍静岡軍政部」の看板をこっそり外しに行き、寮の部屋に飾って得意がっていた“豪の者”がいた。その看板を担いで持ち帰ったときの彼は、進駐軍から“戦利品”を分捕ってきた、まさに英雄として寮生から喝采されたのだった。

しかし、当然のことながら進駐軍の捜索が始まる。「こんな粗暴なことをするのは高等学校の生徒に違いない」という彼らの読みは、当時の静高生が世間からいかに剛毅なイメージで見られていたかを物語っている。まさにその通りだったのだが…。

そして翌日、進駐軍の将校たちがジープに乗って寮へと押しかけてきたのだ。だが、高等学校の寮は自治の大原則によって守られている。「何人足りとも寮長の許可なく立ち入ることはできない」という掟だ。米軍将校の応対にでた副寮長は、この自治療としての大原則を告げ、「寮長の許可を取りに行ってくるからしばらく待っていてほしい」と言って、その場に将校たちを待機させた。その間に彼は、大急ぎで軍政部の看板を壁から引き剥がして炊事場に運び、これを叩き割ると、かまどの火の中に投げ込んでしまったのである。証拠隠滅の完了である。

寮長の許しが出たので、将校たちは各部屋を調べて回ったのだが、当然と言えば当然のこと、とうとう看板は見つからなかった。そして彼らは、「もし看板を発見したら、看板とともに容疑者を連れて軍政部まで出頭するように」と言い残し、帰って行った。

後日、その大胆な悪戯をした張本人が軍政部にまで出向いて行った。彼は、厳しく叱責され、何らかのお咎めがあると覚悟を決めていたのだが、そうはならなかった。怒られるどころか、「君はなかなか勇気がある。見どころのある生徒だ」とアメリカ兵たちから賞賛され、何と、たらふくご馳走にまでなって帰ってきたのだ(進駐軍もなかなか味なことをすると感心した覚えがある)。しかも、アメリカ製の肉の缶詰やらパンやら、数々のお土産までもらってきた。まさに進駐軍からの“戦利品”を持ち帰った寮の英雄として、二度目の喝采を浴びることになったのである。

親友たちの後押しで無事及第点
新制東大第1期生となる

多様多彩、優秀な友人たちと愉快なバンカラ生活を満喫しながら、1学期と2学期の充実した日々はあっという間に過ぎていった。

ところが、年明け早々に予想外のことが起こり、私の人生に暗雲が垂れ掛かった。なんと痔瘻じろうを患ってしまったのだ。あまりの痛みに耐えかねて否応なく手術に踏み切ったのだが、これが理由で学年末試験を受けられなかった。このままでは点数が足らず、1学年を修了できなくなってしまう。しかも、そればかりではなかった。

既に昭和22(1947)年3月に制定された学校教育法によって、新制のいわゆる「6・3・3・4制」の導入は始まっていたが(学制改革)、新たな学制に完全に切り替わる昭和28(1953)年3月までは学年によって旧制と新制が入り混じることになる。その混乱を防ぐため、学年の段階に応じてさまざまな経過措置が取られた。この経過措置の中で、24年3月時点での1学年修了者に限って新制大学の入学試験の受験資格が与えられることになったのだ。

ということは、もし私がこの年に単位不足で1学年を落第してしまうと、その時点で大学受験資格も失ってしまうことになる。しかも、次年度には旧制高校が廃止になるので、ここで落第すると新制高校生として1学年からやり直さなければならないのだ。

私の単位不足の可能性を聞きつけた親友たちは、実に親身になって心配してくれた。そして、こぞって担任に願い出てくれたのだ。彼らはビッテン(bitten)と称し、噛みつくような勢いで先生に掛け合ってくれた(bitten とはドイツ語で“頼む”、“求める”、“問う”などを表す動詞)。

「伊室の2学期の成績の6割を3学期の成績として与えてやって下さい。彼の実力が落第するほど下がっているとは思えません! お願いします!」

私は涙がでるほどうれしかった。この親友たちのお蔭で、私はクラスのお尻から2番目の成績をもらうことができた。ぎりぎりの点数で何とか1学年の修了が叶ったのである。

人によって多少の差はあるだろうが、旧制高等学校が持っていた特有の「自由・自治」の空気を謳歌してきた者は、在学中の体験を “良き思い出”として持っていることが多いと思う。もちろん、私もその一人だ。少なくとも敗戦後から新制に変わるまでの間、旧制高等学校における独立自治の気風はその後に類を見ない稀有のものだった。GHQもこの旧制高校の長所を学制改革によって新制高校に引き継がせようとしたようだが、一度壊したものは学制改革によっても再生することはなかった。

私は、この旧制高校の奔放な空気の中でこそ、敗戦直後の重苦しかった精神状態から一気に解放され、生涯にわたる多くの親しい友人たちを得ることができた。そして、戦前の陸軍幼年学校や予科士官学校で培われた精神力や体力とは別の意味で、自分の中の人間性を豊かにしていくための感覚を体得したように思える。ほんの1年間にすぎないが、私のその後の生涯にとってかけがえのない珠玉の1年間だと言っていい。

その大切な1年間を親友たちの後押しで修了することができた私が、次に踏むべきステップは大学入試である。大学もこの年から旧制と新制が同居することになるのだが、私たちの学年が入ろうとするのは、もちろん文字通りの新制の方だ。

ただ、多くの友人が新制東京大学の第1期生の入学試験を受ける流れができていたので、私もそれに乗って受験した。結果は合格だったが(ちなみに文科 Ⅰ 類、法学部コースだ)、きっと高校時代の内申書はあまり問題にはされなかったのだろうと、私は密かに思っていた。

ところが私の友人の一人に珍事が起きた。ここでの主人公は、私が寮で作ったカレーを「ボリューム、ボリューム」と言っては早食いを決め込んでいた渡辺文雄である。

合格発表の日、私は渡辺と一緒に連れ立って大学まで見に行った。すると掲示板には、私の名前も渡辺の名前もちゃんと書かれている。「やったな!」と二人は笑みを浮かべて握手をし、合格の書類をもらって校門を出た。そしてそのまま、道玄坂まで足を伸ばし、祝杯を上げたのである。

ところが翌日、その渡辺が浮かぬ声で電話をしてきた。「おい、俺、実は落っこってたんだ。間違いだったんだよ」と言うのである。聞けば、同姓同名、漢字表記も同じ、もう一人の渡辺文雄が合格で、ボリュームこと渡辺文雄は残念ながら不合格だったというのだ。誰もが落ちるはずはないと思っていたのだから、渡辺の意気消沈ぶりは尋常ではなかった。このとき、「そうか、せっかく道玄坂でお祝いしたのに…、残念だったな」とは言ってみたが、それ以上の慰めの言葉が出なかった。

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これには後日談がある。たまたま“もう一人の渡辺文雄”(合格した方の渡辺)と入学後の大学構内でばったり遭遇したのだ。同年入学で同級生になったのだから、いつかは出食わすだろうとは思っていたが、対面した瞬間にはその男が“件の渡辺”であることなど知るはずもない。

すると向こうから「伊室さん、お久しぶりです」と声をかけてきたのだ。見覚えはあるが、名前が思い出せない。私は正直に口に出した。

「んっ? ごめん…、名前はが出てこない」

「渡辺ですよ、東京幼年学校で1年後輩だった、渡辺です」

「おー、そいつは奇遇だ」と声を発したところで、「まさか」と思い聞いてみた。

「で、渡辺君…、君…、下の名前は何て言ったかな?」

「いやだなー、お忘れですか、渡辺文雄ですよー」

私は驚いて声を上げた。

「おー、そうか! 君だったのかー! 君のお陰でがっかりさせられた俺の友だちがいるんだよ」

そう言って、道玄坂で祝杯を上げた話までしかかったとき、相手が話を止めた。

「何を言ってんですかー! 迷惑したのはこっちですよ!」

その“もう一人の渡辺文雄”は、やや語気強く、抗議の意味を込めているようにも思えた。

彼によれば、合格発表で自分の名前を見つけて意気揚々と大学の事務所まで足を運んだはいいが、既に渡辺文雄という人物が合格通知と書類を持って行ったと告げられたという。

「あなたが合格した渡辺文雄さんということなら、何か証明するものがなければねぇ」と、合格した本人なのに冷たくあしらわれたのだ。

「そのときは身分証明になるのは持っていかなかったし、その後の手続にえらい苦労させられましたよ」

この合格した方の渡辺文雄は、卒業後は農林省に入り、水産庁長官などを歴任してから、農林水産次官を経て、栃木県知事(確か4期務めた)になった男だ。彼にしてみれば、確かに気の毒といえば、気の毒な話だったと言える。

ちなみに東大第1回生の入試には失敗した方の渡辺文雄は、翌昭和25年、今度は文科Ⅱ類(経済学部コース)を受けで見事合格している。そして、彼とはその後も親しい付き合いが続いた。