【第2章】復興から「成長」へ[第1部]成長の「場」を得る

高度経済成長の流れ中に 昭和37(1962)年〜昭和41(1966)年/34歳〜38歳

必死で作った「営業所長の執務指針」
“T号作戦”という旗印を掲げる

火災保険の代理店担当から、業務部企画課に転出したのは、昭和37(1962)年のことだった。その後の社長室や企画部などが一緒になったような機能を持つ部署で、予算大綱の作成や新しい営業方針の策定などを受け持つところだ。

同じ課に同年入社で慶応大の大学院出身のN君がいた。この人はめっぽう数字に強かったので、もっぱら予算作成の仕事を得意とし、そのためにM課長に重用されていた。しかし、私にはN君ほどの得意分野も専門的な知識もなかったせいか、突然「営業所長の執務指針」というものを作れと命じられた。「営業所長はどのような心がけで、どのような仕事をするべきか?」という心得を記した、営業所長の“バイブル”のようなものだ(最近は「クレド」とか称して企業でも一般化してきた)。これを携帯し、いつでも見られるようなコンパクトな体裁にまとめろというのである。

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私は入社以来、保険営業それ自体の経験もなければ、営業所に勤務したこともない。まして営業所長の経験などあるはずもない。しかし中途半端な仕事はしたくないと思い、参考文献(『営業課長の執務要領』という本を書店で見つけた)を買ってきては熟読し、さらに実際の営業所長やその経験者にも会ってリアルな声を取材し、必死になって作った。すると、これがなかなか良くできていると評価され、営業所長の間でも評判になった(必ずしも我田引水ではない)。

この「営業所長の執務指針」を作る仕事をしていた頃のおかしな話を一つ。

営業所長への取材や資料調べ以外にはほとんど自分の席でこつこつ仕事をしていた私は、業務企画課にかかってくる電話を課内で最初に取ることが多かった。するとときどき、なぜかM課長宛に社内の他部署から電話が何本もかかってくるのだ。私が「M課長は留守です」と言おうとするのだが、相手は私をM課長だと早合点してこう話し始める(私の声が課長に似ていたのだろうか)。

「Mさん、あなたが社長になった暁には、どうかよろしくお願いします」

M課長は、旧制静岡高校と東大の出身で、つまり私の先輩に当たる。私より10年以上も前、戦争の状況がそれほど悪化していないころの昭和17年の入社だ。その後の18年、19年には、かなり戦況も厳しくなっていたので、徴兵年齢も見さかいがなくなっており、社内でもM課長ほどの優れた人材が手薄になっていた。そのせいもあって、彼は次世代の社長候補筆頭と目されていたのだ。

この電話(相手は複数人である)経験によって、将来の社長候補に取り入って裏道から自分の地位の安定を図ろうとする人間が本当にいるということを、当時はまだ若手の部類だった私は初めて知った。自分に与えられた仕事に一生懸命になっている私にとって、「会社というところにはいろんな人間が生息しているものなんだなぁ」と、半ば呆れて受話器を降ろしたのを覚えている。

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同じころ、企画課員として支店長会議の準備で役員室との打ち合わせがあり、同席させてもらうことになった。私たちヒラ社員はすみの方で記録を取っていたが、三好武夫常務(当時)から突然、「若い者は何かアイデアを出せ!」と声がかかった。そこで私は日ごろから温めていた持論を述べた。

「安田火災はいま業界第2位に安住しています。しかし3位、4位のT、Sが迫ってきている。このままでは4位に転落しないとは限りません。後ろを見ながら走っていたのではスピードが出せないと思います。とにかく前に向かって、T海上に追いつき、そして追い越す運動を展開すべきではないでしょうか?」

そして、「この際、全社を揚げたその運動を、“T号作戦”と名づけてはどうでしょうか?」と私は続けた。もちろんこの「T」とは、当時の業界トップであるT海上火災のことだ。そのトップを意識することによって、安田火災の戦略イメージを全社で共有するというのが提案の趣旨である。

このとき、私の心中にあったのは、戦争中の海軍の伊号潜水艦作戦という言葉だった。共通の目標に向かって人間が一丸となって前進するというイメージを想起するとき、私のアイデアの源泉は、やはり戦争中の経験に立ち戻ることがまだあった。少年時代に刻まれた言葉のイメージは、そのころでも私の中に眠っていたのである。

この私の提案に対して「若い者が何を言うか」という顔をする役員もいたが、三好常務は「それは面白い! 即刻やろう!」とその場で力強く快諾してくれたのだ。この後間もなく三好常務は社長に昇格するのだが、この時期、全社を牽引していくための新機軸を出そうと模索していたのではないかと思われる。

こうして、昭和38(1963)年、安田火災の“T号作戦”という旗印が、全保険種目の営業戦略として掲げられることになったのである。

さて、同時進行していた「営業所長の執務指針」の仕事が1年ほどで仕上がったころ、社内の機構改革があり、業務部の中の業務課と調査課が一緒になって、火災業務部という部署ができた(業務部企画課は社長室となる)。私は、その火災業務部の業務第二課に配属になり、火災保険の営業推進と募集組織強化の仕事に携わる。

そのころ新たな保険として売りだされていたのが、利益保険という新商品だった。これは、火災によって休業を余儀なくされた間の売上の損失を補填するという保険である。

店舗や工場などモノが火災に遭った場合は火災保険で損害が保障されるが、火災で商売ができなくなった場合の損害は火災保険では担保されない。そこでこの利益保険によって、商売上の損害を保証してやろうというわけである。

この保険はイギリスですでに実施されていた間接保険の輸入版で、昭和34年に大蔵省の認可を得て日本の損害保険各社が手を染めていた。ところが、内容がかなりむずかしいこともあり、なかなか販売のエンジンがかからず、営業的には放置状態にあった。そこで、当時の檜垣文市ぶんいち社長の号令の下で若手の提案が採用され、利益保険推進班というプロジェクトが火災業務部を中心に編成された。私もそのチームに参加することになったのである。

難解な利益保険の理解と拡販のために
研究と営業実践を重ねる日々

「火事による経営者の失業保険です」──。これは、利益保険について見込客に端的に伝えるために、私たち利益保険推進班が考え出したキャッチコピーだ。しかし、この簡潔な一言を絞り出すまでの苦労は並大抵のものではなかった。

そもそもこの保険商品がイギリスからの輸入版で、イギリスの原本を直訳したような「利益保険の解説」という本が実に難解きわまりない。一人で読んでも顧客を説得できるようなシロモノではなかったため、この本を材料に葉山の寮(あかね荘と言った)で合宿を行い、本の執筆者(プロフェッサーと呼ばれていた)を囲んで推進班全員で熟読玩味することになった。

おもしろいもので、「ああでもない」「こうでもない」と侃々諤々かんかんがくがくの議論しながら難解な資料を読み合っていると、一人ではさっぱりだったのに、みんなの脳の中に次第に一つの像が浮かび上がってくる。そうこうしているうちに議論は深夜に及び、お互いに疲れ果てたころになってようやく、この利益保険の本質が見てくるのだ。睡眠不足なのに妙に頭が冴え、勃然と自信がみなぎってきたことを思い出す。この合宿によって推進班全体の理解が深まり、業務推進の士気が大いに高まった。

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だが、そこからがまた大変な道のりだった。

通常、新しい保険商品が開発されると、全国の営業所で新保険説明会を催し、営業社員の理解を促進する。しかし、この利益保険は理解そのものがむずかしい。まして、実際の顧客と契約を結ぶまでには、しかるべき手順と時間が必要となる。私たち業務部のチームが深めた理解を、さらに現場の営業社員が実践的に使える情報にまで育て、契約締結まで持ち込むためには、まだまだ具体的な段取りが必要となる。

そこにI常務から厳しい業務指示が発せられた。

「業務部の人間が偉そうな説明をするだけでなく、ツバメが餌を採ってきてヒナに与えるように、推進班メンバーが営業社員の前で契約をして見せろ」

つまり、推進班自らが見本を示さなければ、この保険は売れない。まさにその通りだ。

I常務が飛ばしたこの激が、私たち推進班メンバーに火を付けた。

私は最初に沼津営業所に足を運んで営業所長に面談した。すると、所長から言われたのはこういう言葉だった。

「『推進班が見本を見せてくれたおかげで契約ができた』などと言われたんでは、却って営業社員の沽券こけんにかかわる。契約が取れるものはすでに取っておいたから、君はそれを土産にして本社に持って帰ればいいだろう」

気骨と矜持のある所長だとは思ったが、それで「はいそうですか」と言って本社に戻ったのではまさに業務推進担当としての沽券にかかわる。

「そんなことでは私も困りますから、どこか見込客のところへ連れて行ってください」

私がそう言って頼み込むと、営業社員のKさんに向かって指示を出す所長。

「K銅板工場へでも連れて行ってあげなさい」

そのあとに、所長はこうも付け加えた。

「でも、あそこは手強いかもしれないな…」

私はKさんに伴われてそのK銅板工場を訪問した。そこで一生懸命に説明する私だったが、社長さんは迷惑顔で言うのだった。

「私はこれから出かける。時間がないから、その利益保険とやらを15秒で説明してくれないか?」

私は冷や汗をかきながら、必死に言葉を探す。

「あのー、ですね、収益の減少に利益率を…」

そう話しているうちに、なんと、社長さんは工場前に止めてあった自動車に乗り込み、あっという間に走り去ってしまったのである。

この経験は、私に、新商品営業のむずかしさと現場の営業社員の苦労を思い知らしめた。もちろん利益保険が抱える特別な事情もあっただろう。しかし、複雑さを備えた新しい保険商品の営業では、見込客に対し、わかりやすい説明を短時間で効率的にすることが、何にも勝る優先の課題なのである。最終的に売れなければ無意味だが、しかし、まず最初に相手の関心と動機付けを惹起させないことには、そもそも話にならない。

このような教訓から私たち推進班が考え出したのが、(上記した)「火事による経営者の失業保険です」というコピーだった。一見たわいもない説明型の言葉だが、このコピーは次第に実際の営業現場で役立つようになっていく。その一方で、さまざまな現場で一つひとつ拾い上げていく実践的な情報が、逆に利益保険推進班を育てていったのである。

しかし、利益保険にかなり関心と理解を示してくれる顧客でも、「“できあい”の商品を押し付けられのはイヤだ」と拒否感を示すことがあった。発売当初のこの保険は、顧客の業種の特性に対する考慮の足りない、融通の利かないパッケージ商品という色合いが否めなかったのだ。

つまり、こういうことだ。見込客の業種や業態に違いがあれば、その売上や粗利益は一般市場の動向や季節などによって波があり、その波にも業種の特性によっておおよその傾向が見られる。例えば旅館業では、地域的な違いや季節による繁忙期の違いは、粗利益の出方のパラメータに如実に反映される。そこで、業種・業態ごとに違いが出る粗利益の変動パラメータを把握すれば、それに応じた利益保険を顧客ごとにレディメード化することが可能だ。この方法こそが、見込客にピッタリの保険を提供するための重要な鍵になるはずである。

そこで今度は、業種別研究班というグループが編成された。そのメンバーは一定の期間内に2〜3業種を詳しく調査してその結果を発表し合い、見込客の業種・業態に適したレディメードの利益保険を生み出していく準備が開始された。

私が担当したのは旅館と病院で、その研究班の班長となった(のちに旅館と百貨店担当に変わった)。参考資料を必死になってあさったり、実際にいろいろな地域の旅館や病院に赴いて話を聞いて回ったりしながら、見込客の具体的な業種特性を勉強させてもらう。外から見ただけの常識では想像もつかないようなリアルな情報に出会うことも多かった。

その情報を各自が研究班に持ち込み、長時間の情報交換と議論を重ねる。最終的に、そこで練り上げた情報を業種別に各見込客宛の企画書にまとめ上げる。つまりこれが、個別の見込客向けにレディメード化された利益保険の提案書となるわけだ。

業種によっては提案書としての体裁やデザインにも凝った。写真を入れたり、キャッチコピーやボディコピーを工夫したり、わかりやすいグラフやチャート図を掲載したりして、当時としては新しい感覚のパンフレットを製作したこと(他社はこういうことをやっていなかった)も顧客には受けた。その結果、この利益保険の売上は全国的に急上昇したのである。

保険営業という仕事自体の面白み
新たな代理店研修制度のための奮闘

利益保険に係る一連の仕事を経験し、しかるべき成果を収めたとき、私は自分の中に大きな自信が湧いていることを自覚できた。この仕事を通して、人間的にも一回り大きくなったような気がしたのも、このころだった。

自分たちが作ったさまざまな営業の仕組みや仕掛けが、自らの営業の実践によって営業現場で役立つ体験をするのだから、仕事の面白みは実感的に倍増していった。と当時に、最前線の営業所の努力や苦労も実感できた。日頃の営業社員の奮闘にも頭が下がる思いだった。彼らの仕事ぶりを強力にサポートするための営業ツールがいかに重要であるかということも、営業現場を体験してよくわかった。

それとともに、保険営業という仕事自体の面白みも感じるようになっていた。「自分の狙った見込客は、いつか必ず成約してみせる」と、聞く人によっては不遜に聞こえるかもしれない科白が口をついて出たときには、自分でも驚いた。少し自信過剰気味だったかもしれない。とは言え、保険というものは加入の時点では事故が起こっていないのだから、加入者が保険の実効性を100%理解することはなかなかむずかしい。だからこそ、保険を勧める側に充分な知識と自信が備わっていなければ、加入者が契約書へのサインには踏み切れないのである。

この利益保険の営業推進とほぼ同時期に手を染めたのが、代理店研修制度の企画立案だった。

損害保険会社は代理店を通して保険商品を販売するのだから、全国展開している代理店募集網の優劣が保険会社のシェアの優劣を決めると言っても過言ではない。ところが、当時、この代理店の実態は保険会社サイドでも明確には把握できていなかった。そこで、火災業務部第二課では、代理店網の実態調査を行い、これをマッピングして保険募集網の現状分析を行った。

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すると、それまでの代理店のネットワーク化がきわめて自然発生的であり、どこにどういう代理店を置けば合理的な地域営業が可能になるのかといった、代理店網自体の経営と整備がなされていないことが見えてきた。地域によってはとんでもない空白地帯ができていたり、老齢代理店が病床に倒れたりした場合などには、多くの営業店がその代行に四苦八苦するという実態が判明したのだった。

一番の問題は、やはり代理店を作り、育てるという経営的視点が欠けていたという点だ。代理店を作る場合、最初はすべてゼロから出発するわけだから、ある程度のイニシャルコストが準備できても、一人前になるまでの生活費(ランニングコスト)がなければ代理店を継続していく見通しも立たず、代理店として独立する決心がつかないという人も多い。

そこで、私たちが編み出したのは、その人が一人前になるまで会社が生活費の面倒を見ることとし、さらに一定期間、計画的に保険に関する勉強をしてもらおうというアイデアだった。いわゆる代理店研修制度である。

私は例の数字に強い同期のN君の協力を得て、この制度の企画立案をスタートさせた。当初の原案は、研修期間を3年とし、主に火災保険を扱う代理店の育成をめざすものだった。当然のことだが、慈善事業ではないので、これに投下した資金は何年で回収できるかを計算しなければならない。まず鉛筆1本に至るまで想定される費用を計算し尽くし、この総額が複利で拡大していく額をグラフ化する一方で、独立後の代理店が稼ぐであろう金額をやはりグラフ化してシミュレートする。すると、独立後18年目のところでこのグラフの折れ線が交差することがわかったのだ。

このシミュレーションでは、自動車保険や新種保険の因子が抜けていることが大きな欠点であることはわかっていた。しかし、当時はまだ火災保険が基本の柱であって、自動車保険や新種保険の損害率は安定していなかったため、安易に計算には入れられないという事情があった。それでも、18年後には必ずプラスに転ずるのだから大丈夫という見通しで提案書を作成した。

しかし、この考え方は楽観的にすぎた。私たちの制度案は会議で一蹴されてしまうのである。

「君ね、18年もかかったんじゃあ、ここにいるほとんどの人間はもう定年退職しているよ」

こう言われて笑い飛ばされ、議案が否決された瞬間のことはいまでも覚えている。このとき、私たちが心血を注いだ代理店研修制度は葬り去られ、幻と化したのだった。昭和39(1964)年のことだ。

しかしその後、皮肉なことに日本社会ではモータリゼーションが加速度的に進行し、自動車保険の売上が急増する。私は残念でならなかった。会社全体にもう少し先見の明というものの備えがあれば、そして、私たちの企画にもっと強い説得力があれば、あのとき設計した代理店研修制度が具現化され、他社を大きくリードする代理店ネットワークができていたかもしれないのだ。時代と状況が私たちに味方しなかったのだろうか。

しかし私の中では、この制度のアイデアが必ず生かされるときが来るという思いがあった。

案の定、その7年後の昭和46(1971)年、私が司会役を務めた自動車業務課長会議において、ある課長の提案がきっかけとなり、この代理店研修制度がやや形を変えて復活し、実際に発足することになったのだ。それは、当時の三好武夫社長の次のコメント一つによる決定だった。

「代理店の後継者育成は大事なことだ。現場の声を取り上げて、本部は早く制度を作るように」

7年という歳月はかかったが、かつての私たちの努力はまわり回って報われたことになる。

この“復活劇”は私に一つの教訓となった。提案というものは、例え内容的に良いものでも、少数の人間の中で単にアイデアとして共有していても、会社経営の次元では何の意味も力も持たない。組織がこれを取り上げるように働きかけ、会社として現に実行に移されることによってはじめて、そのアイデアは威力を発揮する。

そのためには、プレゼンテーションの能力とともに、アイデアや立案の中身が具現化されるタイミングへの“読み”もまた、鍛えておくべき資質の一つなのである。

家族経営に関する“企業戦士”の「言い訳」
父、藍綬褒章を受勲する

時間が少しさかのぼるが、ここで再びプライベートな話をしておきたい。

利益保険の営業推進の仕事に移る前年の昭和36(1961)年1月、わが家には長男が、さらに翌年(37年)の10月には次男が誕生した。

長男はたかし、次男はみのると命名。私は姉が4人、妹が1人の姉妹だけの中で育ったから、男の子が続けて生まれたことがことのほかうれしかった。2人の男子誕生には、郷里の父母の喜びもひとしおだった。

しかし、当時の私はまさに“企業戦士”と化していた。利益保険の業務推進にはじまり、代理店研修制度の企画立案、そしてこのあと代理店の資格制度大改定、石油物件の営業担当、さらに自動車保険業務へ──。会社が次から次へと与える仕事は、まさに高度経済成長の時代を反映した損害保険ビジネスの最前線にあるものばかりだという自負が、私の中に育っていった。

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夜遅くまでの残業が当たり前で、家に帰れば子どもたちは眠っている。たまに会社が定時に引ければ(きわめてまれだったが)、同僚と麻雀や居酒屋への寄り道が常だった。

とは言え、さすがに日曜祭日は子どもたちとの時間を捻出して、家族の笑顔をカメラに収めることが家庭生活らしい安らぎの時間だった(写真は私の大切な趣味でもあったわけだが)。ダットサン1000を購入したのも、ただ私がスピードを楽しむためだけではない。初期の頃は妻登美子を乗せて運転することが日曜祭日の楽しみの一つだった。子どもができてからも車でよく遠出をしたし、父が上京した折には、箱根の温泉地までドライブした思い出がある。いま考えれば、平日の“企業戦士”は、日曜祭日にはそれなりに家族サービスの労力を使っていたと思う。

その意味で確かに家庭は円満だったが、しかし、妻に対しては夫として、息子たちに対しては父親として、どの程度の役割を果たしてきたのかと問われれば、自信がある答えを返せるわけではない。家庭は主婦が守り、子育ては母親の役割という文化が当然とされ、ほとんど疑われることもなかった時代だ(今日のイクメンなど想像すらできない)。決して自分を正当化するつもりはないが、当時、企業に務める男性の大半は、おそらく家庭経営よりも会社での仕事を優先するという男優位の企業社会に何ら疑いを持たなかったと思う。

言い換えれば、エコノミック・アニマルよろしく、ただ会社の業績を伸ばすことに専念し、その行為が自分の給料に跳ね返ってくると考えるのが、私企業における勤め人の基本姿勢だった。その結果、社内で地位の上昇を通して、最終的には定年まで勤め上げるということが大方のサラリーマンの生き方であり、転職して自分の社会的地位をアップさせようと考える者はまず希少だった。社内での出世プロセスの中で、会社から与えられる仕事をこなしながら、自分の成長に利する知識や技術(あるいはビジネスのノウハウ)は吸収し、そのようにして自分の中に蓄積されていく経験知こそが、会社人間の人間としての技量として評価されるべきものだと、大半の勤め人は考えていたはずだ。

私自身、決して会社に対する特別の忠誠心などはなかったが、ただひたすら自分のために働けば結果として会社の成長にも寄与できると考えていた。

もっとも、尊敬に値する上司にはその尊敬の証として「その人のために働きたい」と思ったことはある。しかしそれは、その個人同士の真摯な関係を見すえてのことであって、正直なところ、会社という雑多で多様な人間の集合体は、それら人間たちのさまざまな「欲」の集合体でもあり、それ自体に対して忠誠心を持てるほど“きれいな実体”というものでもない。会社という雑多で複合的な要素によって形作られる関数の中に、社員が持つ「欲」の変数と、ビジネスが含んでいるもう一つの「欲」の変数が放り込まれ、そこに何らかの答え(成果・実績)を効率的に生み出すことが、会社人間には求められるのだ。

だからそんな人間にとっては、家庭というもう一つの重要な関数が、なかなか見えにくいのである。給料だけは確かに運んでいたという自負はあるが…。

とまぁ、このように振り返ってきて、これはやはり家庭を顧みることなく高度経済成長期を生き抜いてきた、かつての“企業戦士”の単なる「言い訳」以外の何ものでもないと、改めて思っている。私だけではないと思うが、高度成長期を汗水たらして踏ん張ってきた当時の男性は、実はきっと何かを犠牲にしてきたのだということを、少しは省みた方がいいのかもしれない(何を犠牲にしてきたかはそれぞれだろうが…)。これは自戒でもある。

ところで、この頃の伊室家にとって、もう一つ、ことのほか重要な話題があった。昭和38(1963)年、父の受勲である。

父が賜ったのは藍綬褒章だ。公衆の利益を興し、公共の事務に功労のあった人間に与えられるという褒章だけに、父のそれまでの人生がまさに国によって評価されたことになる。戦後もずっと三重県の食糧公団・営団を取り仕切り、それを礎とした食料卸販売の会社を経営し、さらに全国食糧卸連合会の役員などを歴任。そして調停委員も務めた父にとって、この上ない労いとなった。

もちろん、これには家族・親族を挙げて喜んだ。父が心底誠実であり、どれほどの努力の人であったか、戦前・戦中・戦後の父の苦労を間近に見てきた者は誰もが知っていたからだ。そしてその父の人生の営みをまさに縁の下から支えてきた母もまた、国からのこの褒章の功労者だった。

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私は受勲のために上京してきた両親を皇居まで送っていった。このとき二人を乗せていった車は、かつて父の資金援助で買うことができたダットサン1000からブルーバードに“進化”していた。既に老境に差しかかっていた父は、後部シートで揺れながら、私の自宅から皇居までの車窓をずっと感慨深げに眺めている。そして一言、ぽつりと言うのだった。

「東京も変わったものだ。わしも歳を取ったということだな」

思えば、父に伴われて陸軍幼年学校入学のために初めて東京を訪れてから20年以上の歳月が経っていた。以後、仕事でも何度か上京しているのだから、東京の変化について知らないわけでもない。しかし、運転する私の背中越しにものを言う父は、私と一緒に訪れたあの頃の東京を懐かしんでいるように思えた。そのときバックミラーに映っていたのは、父の坊主頭と小柄な母の黒髪(歳の割りに黒ぐろしていた)だった。

代理店制度の大改定を敢行
火災保険業務の花形、石油会社担当へ

昭和39(1964)年6月16日、新潟地震が起こった日のことを思い出す。私はこのとき、神田淡路町にある損害保険協会の一室にいて、激しく揺れる机の上の書類を懸命に抑えていた。私だけではない。代理店制度の大改定のために損害保険7社から1名ずつ集まって作られた代理店教育小委員会のメンバーたちも一緒だった。

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この小委員会の結成はその1年半前。以来、来る日も来る日も新しい代理店講習の教材づくりに取り組んできたが、まだ完成には至っていなかった。最初の頃は競合する同士の寄り合い所帯のようだった小委員会も、新潟地震が起きた頃には、お互いの垣根が取り払われていた。損保業界の将来を見すえた重要な仕事だという認識を共有していたからだ。

それ以前の代理店制度は、取扱保険料の額の大きさで格付けが決まっており、研修制度も各社それぞれの独自のやり方をしていた。それに対して、欧米の代理店制度を調査してきた監督官庁の担当官が、業界共通の保険知識の講習と試験制度を導入してはどうかと示唆してきた。政府の保険審議会が、開放経済の時代に入った国内の保険制度を大きく見直そうとしていた頃のことだ。

確かに、代理店の資質の向上を図るために、少なくとも上級代理店(特別総合代理店や総合代理店がある)には一定水準の保険知識や手続き技術を判定する共通試験を導入するのは有効な方法だった(初級・普通代理店は講習と書類審査のみ)。高度の募集能力を必要とする代理店の増加・育成が可能となるし、契約者の保護やサービスの向上につながる。そして、私たち損保会社・業界自体の信頼性を増すことにもなっていくはずだ。損保会社にとっても経営の重要な柱となる仕組みである。

だが、そう簡単な仕事ではない。前人未到の原野を進むような手探り状態が1年半も続いたすえに、いよいよあと3か月で完成させなければ、という段階で、件の新潟地震が発生したのである。しかし地震で仕事の停滞は許されない。いささかの焦りを感じながらも、地震によってそれぞれの会社の業務の混乱に気を取られることなく、各社共通の共有財産となるはずの仕事に集中した。最後の産みの苦しみを伴いつつも、新たな代理店制度を何とか作り上げたのである。

ところが、代理店経営を実践している側からしてみると、新たに試験を受けて代理店資格を取らなくてはならないわけだから、これまで以上のエネルギーコストが必要となる。代理店にはそれが大きな負担につながるというクレームが相次いだ。ある有力代理店の経営者は、火災業務部の部屋に乗り込んできて、いきなり言い放ったものだ。

「この歳になって試験を受けさせるとは…、損保協会は自分たちのことしか考えていないのか?」

「これまでのわれわれの努力は無視するつもりか?」

「試験に失敗したら収入が減る。そんな制度には納得できない」

新制度の実際の実施までは経過措置があるものの、上級の代理店にとって損保協会主催の講習を受けて試験に合格しなければならないということの負担は、かなり重いものとして受け止められていた。その意味では、確かに同時並行的に代理店の負担感を軽減するための方法も考慮すべきだった。

損害保険の実際の販売は代理店に多くを依存しているのであって、損保会社が自分たちの都合だけを考えていたのでは、損保の販売はおろか、お互いの共存共栄は望めない。自分たち損保会社と代理店のどちらを優先すべきかという二者択一的な問題ではなく、どちらもが生かされ、ともに繁栄していける制度づくりが何よりも肝要だったのである。

そこで、新制度とその試験のための教材づくりが完成して、ほっとしたのも束の間、損保各社は自社の代理店が試験に合格できるよう、親身になって指導するという仕組みもつくることになった(これは各社共通の仕組みというより、各社が独自の仕組みづくりをするということだ)。

その仕組みというのは、要は、代理店のみなさんが新たな制度の試験に合格するように親身に補習をして差し上げるということなのだが、安田火災の場合、結果的に集中講義をする“塾”みたいなものを催すことになった。

とは言え、代理店のみなさんにとっては生活に係る大事なので、その真剣さは並大抵のものではない。彼らが求める知識欲と集中力に応えるためには、こちらも相当な準備が必要となる。通常の保険説明会とはまったく異なる緊張感が漂い、講師が少しでももたついた説明をすると、翌朝には火災業務部にきついお叱りの電話を頂戴する、という具合だった。

補習を行っていた虎ノ門の西松ビルは土曜の午後には冷房が止まってしまうので、アイスボックスを持ち込んで暑さをしのいだ。休憩中といえども鋭い質問が殺到し、アイスボックスからコーラ瓶を取り出して喉の渇きを癒やしながら、汗をかきかき説明をする。講師にとっても受講者にとっても、まさに悪戦苦闘の“塾運営”だったと言っていい。

その結果、安田火災に関する限りすべての代理店が合格を勝ち取ることができた。いま思えば、このときに多くの代理店の方々との親しい関係が培われ、その後の長いお付き合いの歴史が始まったと言える。まさにこのときのお互いの苦労の成果である。

この新代理店制度を軌道に乗せたのち、昭和40(1965)年、東京営業部工場第一課に異動になり、石油物件を担当することになる。

火災保険に従事する者にとって、石油や石油化学の工場物件を扱う職場は花形である。石油会社の工場は一般の工場とは違って事故リスクも高いので、その営業に際しては特別の技量とノウハウ、さらに研究心が必要となるからだ。

リスクが高いということは、普通に考えれば保険料も高額になる。一方で、当然のことだが、石油会社側は保険料を安く抑えたい。損保会社にしても、高い保険料をそのまま頂戴するということになれば、なかなか契約には結びつかないので、石油精製工場を細部にわたって調査させていただくことになる。保険の料率を考える上で、どんなリスクがありうるのか、あるいは、どんな安全対策をしているのか、ということの詳細を調べるのである。

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しかし、契約総量において大きな石油会社や化学会社などを顧客としたい損保会社各社の競争は、自ずと激しくなる。複雑に絡まっているように見えるパイプや複雑な装置の一つひとつやプラントの仕組み、工場システムの全体を理解し、把握することは至難の技だが、まさに私たちの腕の見せどころだった。私が率いる石油物件担当チームは、猛勉強の末、プラントごとのリスク計算の手法(アメリカにあったモデルから学んだものだ)を独自にアレンジして、工場全体のリスク要件を評価するシステムを考案し、N石油会社の保険料判定に応用していったのである。これは簡単には説明しづらいが、当時の火災保険の保険料シミュレーションの手法としては最先端のものだった。

振り返れば、石油会社を担当した東京営業部工場第一課での経験は、それ以前のさまざまな業種の顧客のさまざまな対象物件以上に、火災保険についての営業手法・ノウハウをわが身に刻み込むためには必須のものだったと思う。石油精製工場のように複雑な要素が有機的に組み合わさった対象を把握・理解するためには、細部にこだわりつつも全体を大きく把握するという一見相反する複眼的な視点を持たなければならない。そしてこれが、ある種の経営的なものの見方に通じるということを、私は経験的に知り始めていたのだった。

私の中に、何か次のステージへの欲求が育っていったのはこの頃である。