【第2章】復興から「成長」へ[第1部]成長の「場」を得る

遠ざかる「戦後」に生きる 昭和31(1956)年〜昭和36(1961)年/28歳〜33歳

新人教育のモデルは陸軍幼年学校時代の丁寧な指導
教えることはむしろ自己成長への鍵

プライベートのことばかりにスペースを使いすぎた。仕事の話にもどろう。

約1年半の病気療養から復帰した昭和30(1955)年の秋、私は新人教育を担当することになった。保険業務に係る書類整理を通して保険の実務を教える、いわゆる内務教育というものだ。

最初の対象者は30年入社組だった。28年入社で実質1年の保険業務教育しか受けていないにもかかわらず、その1年間の山口茂課長の猛特訓の成果が、私の中に凝縮されていた。保険業務のエキスパートである山口課長ほどの知識や見識があるはずもないが、「教えるとはどういうことか」ということについては、私は2つのモデルを持っていた。一つはもちろん、私が直に教えを受けた山口課長の手法だ。

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ではもう一つは何か、と言えば、それが陸軍東京幼年学校時代の教育スタイルだった。当たり前のことだが、何も軍国教育をしようというわけではない。

第1章でも述べたが、東京幼年学校の教育は、決して暴力的なものではなく、厳しさを秘めながらも、きわめて丁寧で、親身な教え方をしていた。相手のわからないこと、できないことを見きわめ、自らが学ぼうとする意欲を育てることに主眼が置かれていたと言ってよい。

戦前の軍学校の教育が何か強権的・暴力的だったというイメージを持たれているかもしれないが、こと陸軍幼年学校に関しては決してそんなことはなかった。ただ、海軍の特に戦中の予科練(予科練習生)の教育訓練では、幼年学校に比べて強権的な側面があったことは否めない(これも第1章で述べた)。ただ、そういう悪しきイメージは、陸軍の内務班において、軍学校を経ないで入隊させられた下士官以下の古兵が新兵を殴る、いわゆる“鉄拳制裁”に由来しており、これが陸軍全体のイメージとして流布されているにすぎない。しかし、違うのだ。

幼年学校では、模範生徒(通称「護民」)と呼ばれる上級生が日常生活上の指導をする教育システム(主に3年生が1年生を指導する)が特色の一つだった(歳が近いせいで相手の気持ちもよくわかるというメリットもあった)。成績によって模範生徒に選抜され、実際に下級生の指導に入るときには、「いいか、小さな盆栽を育てるんじゃないんだぞ。すくすくと伸びる杉の大木を育てるつもりで、大らかに、懇切丁寧に教えろ」という訓示が与えられる。

「教え-教えられる」関係の中に何らかの「情」という回路がなければ、伝わるものも伝わらない。そのとき、単なる上下関係を超えて、人同士が本当に対等に向き合わなければ、この回路は成立しないのだ。この考え方は、幼年学校時代、十代後半の私の精神性の核に確実に染み込んでいた。そしてそれは、その後も、人と相対するときの心得として常に意識してきたことだ。

私が実際に教えたのは、昭和31〜33年入社の新人たちだった。これは、面白いことに、幼年学校時代の1年生に対する模範生徒とほぼ同じ年齢差だ。私は、まさに「大木を育てるつもりで、大らかに、懇切丁寧に」教えることを心がけた。教える中身はもちろん保険業務の基礎だ。

しかし、現在のように就職活動用の業界別の解説書などなかった時代に、複雑な損害保険の業務の実際を素人に教えこむことは、そう簡単なことではない。私が新人だったときには、山口課長のようなあらゆる保険ジャンルのエキスパートに、最初から厳しくリアルな保険業務の具体的なイメージを叩きこまれたが、懇切丁寧という教える姿勢だけが取り柄の私には、まだリアルな保険業務の経験がなかった。

そこで、保険知識の資料作りはもちろん、実際の保険実務や顧客とのやり取りのシミュレーションを加味し、私なりの独自の方法を考案して、それを実践していった。もちろん、山口課長にも、こわごわだが相談にのってもらった(「いつでも話は聞いてやる」と言われていたからだ)。

この新入社員教育の実際を通じて、逆に私は2つのことを学んだ。

一つは、教えるという立場からも、その対象となる新入社員を知ることがいかに大切かということだ。まだ保険業務についてまったくの素人である新人に対して向き合うと、その人間の人柄や資質が次第に見えてくる。すると「相手は何がわからないか?」が理解でき、さらに「なぜそれがわからないか?」がわかってくる。ここまでくると、人と人の間柄に「情」という回路が育ち、その回路を持った「教え-教えられる」関係の上に保険業務の知識を乗せていけるようになる。

そのような関係を築かずにいくら教えこんでも、それは相手の“自発的に学ぶ”という動機と“もっと知りたい”という欲求の醸成にはつながらず、知識・情報の吸収力は圧倒的に落ちてしまう。実際の仕事の場面でも、上司からの命令だから行うというだけの仕事では、本当にその気になってやる気になれない。動機付けと欲求の土台として、「情」という回路を持った関係こそがものをいうことになるのだ。ここでも私は、「他者」(ここでは新人)の要求(リクエスト)に応えようとする時にこそ、私の職能を全うできる自分に出会うことになる。

このことは、私にとっても自己成長の鍵となっていった。その後、どんな業務を請け負ったときにも、部下や同僚、上司、取引先といった、あらゆる相手との接点の持ち方の基本原則となっていく。

もう一つ学んだことは、(これはこのとき学んだと言うより、あとから結果的に見出したことなのだが)「無私」に近いところで人と接することが、いかにその後の人間関係を豊かなものにするかということだった。もちろん私は聖人でも宗教家でもないから、完全な「無私」などとは無縁の存在だ。ただ、新人教育に携わっていた3年間は、ひたすら人間への興味と、人間観察の面白み、相手の成長する姿を見る楽しさに没頭していたと言っていい。

その意味では、私は自分の「欲」を露骨に出さずに新人たちと接することができたことは確かだ。自分の「欲」を発動するだけでは新人たちはついてこない。そうではなく、「新人たちの学ぶ動機と欲求に呼ばれ、応える存在」としての私がそこにいればよかったのだ。

後年わかったことだが、このころに教えた後輩たちが、後輩・部下としてその後の私を親身になって支えてくれるようになっていった。そんなとき、彼らは「あのとき伊室さんにお世話になったから」と言ってくれるが、私には世話をしたという気持ちはない。ただ、仕事だから教え、仕事だからそれなりに懸命に取り組んだだけのことなのだ。

決して格好をつけているわけではない。私は余分な「欲」で動くよりも、それをすると「何か本物と出会える」という好奇心の方が優先してしまうたちだったにすぎない。

組合の総会を流会にさせてしまった“事件”
“濡れ衣”の背景にはある人物との再会があった

復職して2年目、昭和32(1957)年のことだった。給与体系の改定問題が組合と会社の間で持ち上がった。給与は以前から(昭和23年以来だったようだ)、税金を差し引いたネット建てだったが、今後は税金を入れたグロス建て(給与所得というのは本来この総額を言う)に変更しようということが論点だった。これは損害保険業界全体での議論で、会社側はグロス建てに、組合側はその反対にネット建てに、というのが双方の主張だ。では、何が違うのか?

簡単な話だ。会社は優秀な新入社員を採用したいわけだが、そのためにはできるだけ給与の額が大きい方がいい。グロス建てなら税金分が含まれるから、ネット建てよりも額面上は大きく見える。また、昇給率が課税率を下回ってしまう年齢層(課長クラスなどの中間管理職)があって、その年齢層にはがんばっている割にはいかにも額面上で恵まれていないという印象を与えてしまう。さらに会社にとっては、グロス建ての方が、給与予算編成の作業が簡素化できるというメリットがあった。

そこで人事部長は考えた。優秀な新入社員の採用と中間管理職の士気のためには、グロス建てにした方がいい、と。実質はそれほど変わらない給与問題なのだが、当時はこれが損害保険業界の各組合全体の問題となっていた。

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安田火災では、組合と人事部との侃々諤々かんかんがくがくの協議の末、概ねグロス建ての方向を決め、「組合の総会ではこの件での質問が出ないように、各課で徹底化を図ること」を言い渡すということになった。しかし私の課では、温厚な課長が「組合の総会で発言を封じるのはおかしい」と、このことを私たちに伝えなかったのである。

さて、総会の当日、議長役の組合幹部から、突然、「客観情勢の変化によって、今回グロス賛成になった」と発表された。私は、会場が少しは騒然となるかと思ったが、意外に静かなので、じゃあ質問してやろうかと手を挙げた。こういうところは怖いもの知らずの私である。

「客観情勢っておっしゃいましたが、どういう客観情勢の変化なんですか?」

すると、これには会場もザワつき始め、組合幹部の連中も慌てだした。当然のことだ。「質問が出ないように」という“お触れ”が行き届いているはずなのに、それを堂々と破ってしまったからだ(私としては、そんな“お触れ”は知らなかったのだから仕方がない)。

しかも、それが新入社員教育を担当している私であることがわかると、大勢の新人君たちの席からもドヨメキが伝わってきた。私も社内では若輩者だが、若輩ながらも新入社員教育をしている身となると、他の若手社員とは重みが違ってくるのだ。

「他の組合支部が賛成に回ったからと言って、それがそのまま客観情勢の変化とは言えないんじゃないですか?」

私は、壇上で右往左往している幹部に対して、さらに突っ込みを入れた。そこから、にわかな論争となりかけたとき、別の課の年配の課長が、やにわに口走った。

「若者! 黙れ!」

「こういう総会で、『黙れ』って言うのはないでしょう。組合の総会は、社内の上下関係から離れた、平等な立場で議論する場じゃないですか!」

すると、先ほどまで黙っていた若手社員たちまでが私に応戦する。

「そうだ!『黙れ』を撤回しろ!」

「議長団! 横暴!」

会場は騒然となり、もはや総会の体を成さなくなってしまったのである。そして、ついに流会が宣言されたのだった。

その直後、私は「総評の回し者」という“濡れ衣”を着せられ、“危険人物”として銚子支部という駐在員一人の職場へ転勤内示をもらった。左遷である。給与体系問題でもめている最中に、さすがに解雇などということになれば、ことがあまりに大きくなりすぎるという判断があったのだろう。

しかし、「質問が出ないように」という“お触れ”を知らなかったから質問したまでのことであり、それによって組合総会が混乱したとしても、私の責任であろうはずがない。しかも、社外で組合運動をしていたわけでもない私に「総評の回し者」というレッテルが貼り付けられるのも理不尽な話だ。

ただ、私には一つ思い当たることがあった。

ネット建てかグロス建てかの議論ががまびすしい時期、組合の社内総会の何日か前のことだ。

当時、大手町にあった6階建ての安田火災の地下の食堂で残業後の食事(確かカレーライスだっと記憶する)をしていると、そこで組合幹部がコーヒーを飲んでいた。そしてその中に、小倉寛太郎の顔を見つけた。大学時代の法学部の同期で、駒場祭の初代実行委員長であり、東大生協を作った男だ。学生時代にはそれほどの親交があったわけでもないが、東大の同じグランドで、私は野球に、小倉はサッカーに興じていて、お互いにボールを拾い合うといった他愛のない接点だけはあった。

彼は卒業と同時にアメリカの保険会社、AIUに入社したが、入社4年目にして全損害保険労働組合(全損保)の地方協議会書記長というポストに就いていた。たまたま同業他社に就職したわけだが、すでに労組の書記長というところが学生時代から左翼運動家だった彼らしい。

4年ぶりの懐かしい再会に、私は気軽に声をかけた。

「おう、小倉、久しぶりじゃないか。どうしたんだ、こんなところで会うなんて、珍しい」

すると彼は笑顔を浮かべながら近づいて来て、こう言うのだ。

「いやね、お前んとこの組合本部はダラ幹でさあ、俺がネジ巻きに来たんだよ」

「ハハハ、そいつはご苦労さん。まぁ、しっかりネジ巻いてやってくれよ」

私は軽い挨拶程度にそう言って席を立った。そして、かつての同級生に向かって「じゃあな」と手を振り、夕食の勘定を済ませて店を出た。

ところが、である。この会話の光景を、安田火災の大勢の労組幹部が見ていたのだ。

小倉が所属する全損保は総評系の強い組合だった。その地方協議会書記長と親しく談笑している人物となると、事情を知らない第三者には、「さては、あいつ、総評の回し者か?」という疑念の目で見られてしまうのだ。いまから考えればおかしな話だが、当時、勢いのあった総評系労組と一般の企業内組合の間には相当な緊張関係があり、闘争意識の高低差もあった。そこに給与体系の問題が持ち上っていたわけだから、その緊張は余計に高まっていたのである。

私が思いつく「総評の回し者」という“濡れ衣”の理由はこれしかなかった。

義兄の援護を受け、人事と寿司屋で対決
「異動、取り消し!」と、三好武夫部長の即断即決

一人だけの職場である銚子支部への異動を申し渡されたそのときの私は、正直を言えば、気持ちの上ではすでに安田火災という会社を去る寸前までいっていた。少し投げやりになっていたかもしれない。郷里に戻って、就職活動のときに父から勧められた地元の銀行に入れてもらえないものかとすら考えていた。

しかし、万が一会社を辞めることになれば、入社の際に思想保証人になってもらった三番目の姉の夫(南出弘)には迷惑をかけることになる。そうなっては申し訳ないと思い、姉の家に行ってこれまでの経緯を話した。義兄は当時、安田火災の調査課長だったから、自分の身内である私が本当に左翼運動家でないことを充分わかっていればこそ思想保証人になってくれたはずだ。しかしそのとき、義兄は「君は本当に『総評の回し者』なの?」と念を押すように聞いてきた。

「義兄さんまでそんなこと言うんですか。冗談じゃないですよ。うちの親父が改進党から市長選に出馬したことはご存知でしょう? 僕は父を尊敬しています。その息子が左翼の運動家ということは断じてありませんよ」

すると義兄は、「わかった。じゃあ、ちゃんと人事部と話して、自分の身の潔白を晴らしたらいい。僕が取り持ってあげるよ」と言ってくれた。実は、私の会社の人事課長と義兄とは、同期に入社した間柄だったのである。

そして早速、私と義兄とが、安田火災の人事部長と人事課長を相手に、対決することになった。場所は日本橋の寿司屋の一室だった。

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まず最初に、調査課長である義兄と安田火災の取締役人事部長による型通りの挨拶が行われ、お互いの足労をねぎらい合った。その直後、初めは小さくなっていた私に対して切り込んできたのは、人事課長だった。この人は、後年、尊敬できる人物であることがわかるのだが、このときにはとにかく私の“本当の姿”(課長の想定する私の姿)を暴きたくてしようがないという風だった。

「君、総会では何であんな質問をしたんだね?」

ここで、「『質問するな』という“お触れ”は自分の課では聞いていなかった」と正直に言ってしまえば、直属の課長に迷惑がかかってしまう。それだけは避けたかった。私の課の課長はむしろ、部下である組合員(つまり私たち社員)の味方だったからだ。

「僕はただ、わからなかったので、聞いただけですよ」

「わからなければ、質問しなければいいんだ!」

人事課長は、人事部長の手前もあって、語気強く、しかし咬み合わない反論を頭からかぶせてきた。理屈の通らないその物言いに対して、私は単なる正論で再反論を試みる。

「わからなきゃあ、質問するっていうのは、当たり前のことでしょう。いや、それよりも、証拠もないのに、私を『総評の回し者』扱いしたのはどういうわけですか?」

そう言って、総会前のあの地下食堂で、小倉寛太郎とばったりと遭遇した経緯を説明し始めた。

「彼は、大学の同じグランドで、野球とサッカーの球をやり取りした、単なる古い友人ですよ。その彼と久しぶりの会話をしただけです。それを聞いていた人間の伝聞だけで、私の素性を即断するなんて、人事を取り仕切る重要な地位にいる方々のすることではありません。こんなこともわからない人事部長ではこの会社の将来も見込みはありませんね!」

私はすでにこの会社を去って郷里の地銀に半ば行く気になっていたので、言いたいことを遠慮なく言ってしまった。

正直、これで私の安田火災での社員生命も終わりだと思った。同時に、「どうせ辞めるんだから」という捨て鉢な感情がどこかにあり、一方では自分の気持ちが少なからず傷ついていることを感じていた。そして、付き合ってくれた義兄からも、もちろん人事部長からも、きっと雷が落ちるのではないかと覚悟を決めていた。

ところが、である。それまで黙って聞いていた人事部長がおもむろに口を開いたのだ。

「そうか、わかった。本人がそこまで言うんだから、本当だろう」

私は思わず部長の顔をまじまじと見つめてしまった。「この人はいったい、何者だろう?」

その人は人事部長に決っているのだが、急にその為人ひととなりに興味を持ち始めている私がいた。そして、部長が人事課長に向けて放った次の一言に驚かされてしまった。

「おい、あの異動、取り消し!」

驚いたのは私だけではない。同席してくれた義兄も、課長も、思わず「えーっ!」という具合に口を開いたまま、全員が部長の顔を見入っていた。そこにまた、部長の言葉が発せられた。

「でもね、俺は確かめさせてもらうよ。本当に『総評の回し者』でないかどうかね」

「確かめる」と言われた以上、簡単には会社を辞められない。そこで辞めたらむしろ「総評の回し者」だったと思われてしまうし、実際には違うのだから、ちゃんと確かめられるまで正々堂々と社員でいることが筋道というものだ。

いやむしろ、人事部長は敢えてその筋道を私に与えてくれたような気がする。その結果、私はそのままずっと会社にいることになったのである。部長が私の素性を本当に確かめてくれたのかどうか、それは未だに不明だ。

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ちなみに、このときの人事部長こそ、のちに代表取締役社長となり、安田火災の中興の祖と呼ばれる三好武夫氏である。彼には、口にするどんな言葉の中にも慧眼を感じさせ、相手の心を動かす神通力があった。この寿司屋での対決以来、私はこの人の存在に魅せられてしまった。私の安田火災における約30年間は、この“人使いの名手”のおかげで成り立ってきたと言っても過言ではない。

国産乗用車のさきがけ、ダットサン1000を手に入れる
ゴルフにはまるきっかけは他社へのライバル意識

仕事の話から少し離れよう。話のスタートはかなりさかのぼる。

陸軍予科士官学校の時代に自動車エンジンの組み立て実習を経験してから、私は自動車のメカニズムに関心を持つようになっていた。エンジンを組み立てたあとにスイッチを入れた途端、その駆動音が鳴り響く、そのときのうれしさが一種の成功体験として私の中に刻まれてしまったのである。戦後になっても、私の自動車に対する関心はずっと続いた。

安田火災への入社当時は、当然のことだが、まだ自動車を買えるほどの給料をもらってなどいないから、得意のカメラで都内を走る車を被写体にするという程度で、単に憧れを抱いているに留まっていた。国内の自動車産業も軌道に乗ってきた高度成長の初期にはモータリゼーションの兆しが見えはじめ、貯蓄して少し無理をすれば手に届きそうな大衆車も販売されるようになっていた。日本社会もようやく“車社会”の入り口に立ちはじめていたのである。

例の日本橋の寿司屋で、「銚子への異動取り消し」という出来事があったすぐあとのことだったと思うが、仕事上の所用で通りがかった小滝橋(東京都新宿区)にある自動車学校の看板が目に止まった。自動車をカメラに収めているだけではつまらないと思っていた私は、運転免許を取って運転してみたい衝動に駆られた。そして、即日その自動車学校に入ることにしたのだった。

免許を取ったら取ったで、今度は実際に運転してみたくなる。たまたま自動車学校のすぐそばにドライブクラブ(いまでいうレンタカー業者のこと。都内にもそれほど多くはなかった)があったので、せっかく免許を取ったのだから早く運転に慣れなければという思いで車を借りることにした。小滝橋から自宅の方南町までは車を走らせれば1時間もかからないが、何度か車をレンタルしているうちに、その走りの爽快さにはまってしまった。

自動車もその運転もただ珍しい時代に、目的があっての運転ではなく、ただ車に乗ることを面白がっているだけなので、いま思えばほとんど子どもが玩具で遊んでいるような状態だった気もする。当たり前のことだが、自宅までのドライブのあとは、今度は車の返却のために小滝橋まで走らせなければならない。

おかしな話だが、ドライブクラブに車を返したのちに、私は電車に乗って自宅のある方南町まで帰ってくるのである。ただ車に乗りたいというだけの行為なのだが、何度かこの往復のドライブを繰り返しているうちに、さすがに自分でもばかばかしいことのように思えてきた。こうなると、自動車を買うことが自分にとっては必須のことのような気がしてくるのだ。

カメラを買ったときも土地を購入したときもそうだったが、現状の資金不足の支援が必要な場合には、素直に郷里の父に相談することにしていた。と言って(これも以前に記したことだが)、父は決して私に甘い人間ではなかった。それなりの蓄財のあった父だが、むしろ財布の紐は堅く締めているタイプだ。ただ、私が率直に資金援助の“必然性”を話せば、その紐は少しだけ緩めてくれる。この自動車を買うことに関しても、私はこう言って父を説得しようとした。

「スピード時代に入ろうとしている昨今、時代に乗り遅れないためにも、車は不可欠です。都市生活者には、まさに生活必需品なんです」

これが本当に“必然性”と言い切れるかどうかの判断はさておき(父はおそらく私の拙い説得論理などお見通しだっただろう)、父はこのときも自動車購入資金の一部を援助してくれることになった。このときには、さすがに伊賀上野の方角に足を向けて眠れないと思うほど、父には感謝した。

手に入れたのは国産乗用車のさきがけとなったダットサン1000。価格は私の給料の約10年分に相当した(約70万円だった)。

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昭和30年代前半の東京の道路と言ったら、文字通りガラガラである。青梅街道や甲州街道などの国道ですら、子どもたちが堂々と石蹴り遊びをしていたし、普通にキャッチボールにも興じていた。

その空いた道を走らせる爽快さを毎日でも味わいたいと思い、私は方南町の自宅から大手町の会社まで車で通い始めた。路上駐車もほとんど公然と認められていた時代である。会社の玄関先に平気で駐車して置いたのだが、これがまずかった。

数日後、突然、総務部から呼び出しがかかり、きつく叱責されたのだ。

「君は何を考えているんだ! 会社へ車で来てもいいのは、常務以上だ!」

自動車の次に私の興味をくすぐったのはゴルフだった。

きっかけは、新入社員教育の任を解かれて東京営業部代理店第二課に配属されたことにある(昭和34年のことだ)。

ある日、日本軽金属の代理店に通っているとき、競合するS社の営業社員が代理店主のSさんをゴルフに誘い、契約を回してもらっていることを知った。これに対し、「負けてはいられない」というライバル意識をたぎらせたのが、私がゴルフというものに手を染め始めた動機だ。

当時、世田谷区の砧に9ホールのパブリックゴルフ場があった(今は公園となっている)。そこで、朝、会社の始業の前、まだ暗いうちに1番ティまで行き、備え付けの樋に印をつけたボールを入れて夜明けを待つ。戦後復興が一段落して、ゴルフが静かなブームを迎えていた時代のことだ。かなりの早朝にもかかわらず、そこかしこに素振りをしている人影がけっこう見られた。偶然のことだったが、保険のリスク調査のために通っていた撮影所の関係者(つまり顧客だ)もいたし、金田正一さん(もちろん国鉄スワローズの時代である)などといった有名人の姿もあった。

そんな人たちの中に一人、まだ素人の私がいる。自分の順番が来て力いっぱいスイングするのだが、当然のように大スライスをやらかし、ボールを隣のバラ園に飛び込こませしまう。初心者でも思い切りだけは良い私だった(こういう場面でも怖れ知らずの性格が出てしまう)。

そんな恥ずかしい私を見て、俳優の藤原釜足さんが「あなた、練習場へ行って、プロに教えてもらったらいいですよ」と声をかけてくれた。そのアドバイスに従って隣接する練習場に足を運ぶと、中村寅吉、小松原三夫、安田春雄といったプロの面々が黙々とボールを打っており、髪の毛をお下げにした、まだ少女と言っていい樋口久子さんが行ったり来たりしていた。彼らが既にこの国のトッププロになろうとしていることなど、当時の私は知らなかった。そして臆面もなく、トッププロたちに手取り足取り指導してもらっていたのだ。

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そうこうしながら、9ホールを回って風呂に入り、簡単な朝食をすませて大手町の会社に急ぎ、9時ちょうどに仕事場に到着する(これはかなり忙しかった)。すると、ゴルフをやらない間宮課長(ガダルカナル島の戦いで足に弾丸を受け、復員した人だ)が、風呂上がりで身体が火照ったまま背広を着て出勤した私を見て、「君、顔が赤いね、熱があるんじゃないか? 今日は早く帰って休みなさい」と声をかけてくれた。しかし、生真面目な間宮課長には、さすがに「顔が赤いのは早朝ゴルフのせいです」とは返せなかった。

こんな風にして3か月ほど、この砧通いが奏功して、代理店主Sさんのお相手ができるまでに上達したのである。このゴルフというものが、その後の私の生き方に大きく係ってくるとは、このときにはまったく予想もしていなかった。

東京営業部代理店二課で損保業務のリアル体験
高度経済成長期への前哨戦を行く

新たに配属された東京営業部代理店二課では、火災保険営業が主な仕事だった。定期的に代理店を訪ね、必要に応じてその顧客企業の現場へ赴く。顧客の現場調査(例えば工場や映画の撮影所など)をして適用料率を算出するといった代理店の下請けのような仕事も、私の守備範囲に含まれた。

もともと損害保険のことを深く理解して保険会社に入ったわけではなかったので、新入社員教育で保険業務について教えた経験がありながら、保険対象になる現場というもののリアリティには、正直、疎かった。なので、代理店第二課時代の顧客の現場調査の体験では、損害保険業務のきわめて細部の問題を実地に知ることができ、これまでの損保業務知識に厚みを加えることに大いに役立った。

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例えば、火災保険にはリスク判定というものがある。その保険対象の建物が、木造なのか、鉄筋コンクリートなのか、鉄骨造りなのか、防火設備はどうなっているのかなど、建物ごとの火災発生や延焼の可能性などによって、そのリスクの等級が複雑に階層化されている。その判断基準がリスク判定だ。このリクス判定によって、火災保険の料率が変わってくるわけだが、時として実際の顧客が指定した保険対象物に、その判定料率書(タリフと言う)に明記されていないものがある。これは、通常の場合、その顧客の業界の人間でなければほとんど知らない、きわめて専門的な分野のモノ(対象物や素材など)であることが多い。

細かな一例を挙げれば、ある製菓会社がシイタケ菌を原木に埋め込むコマ(木製のチップ)を作っていたが、「椎茸のコマ」などというものは料率書には書かれていない。小さなものでも、大量に扱うのであれば、その貯蔵段階などで火災が起こる可能性を見逃せない。

そこで、その製菓会社に行って現物を見せてもらい、念のために写真を撮る(資料をつくるためだ)。そして顧客側に、それがどんな材料でできていて、燃えやすさの程度はどんなものか、定量的にはむずかしくても、定性的な性質を聞き出すのである。その結果得た情報から、新たな料率を決定していくのである。

あるいはまた、映画会社の撮影所という場所も、現場調査の対象としては重要だった。個々の映画の撮影の内容によって、料率を決定するための要因(材料)が複雑になってくる。撮影所というところは、火事の撮影などもあり、素人には思いもよらないないほど危険と隣合わせのことが行われる場所なのだ。その調査のために、やはり撮影所へと足を運ばなければならない。

顧客の方も、ちゃんと調査してもらって安全性に気遣っている撮影所であることがわかれば、保険料が安くなるので、調査にはおおむね協力的だった。逆に言えば、営業の仕事というのは、保険料を安くするかということが顧客の信頼を勝ち得る最大の武器だから、そのためにはどんなことに目を配るべきか、勉強しておかないとしっかりした調査はできないのだ。

そんな気構えで撮影所にいくと、ときどき映画でしか見たことがない有名人に会うこともあった。石原裕次郎や、のちに彼と結婚する北原三枝、裕次郎を発掘したことで知られる水の江滝子(当時はプロデューサーだった)、など、当時の映画界を背負うような人たちの顔は何度か見かけた。

ちょうどそのころ、私が担当する代理店の顧客、日本精工の社宅が全焼するという出来事があった(前にも述べたが…)。これに対して私たち担当者はすぐに現場に急行し、迅速に保険金の支払を行ったので、顧客から涙を流さんばかりに喜ばれた。損害保険というものが被災した顧客にとってこれほど役に立つものであるのかと、初めて実感する重要な経験だった。

時代を振り返ると、私が入社したころ(昭和28年)は、朝鮮戦争による特需によって「消費景気」と言われる経済成長を遂げていた時期で、政府は基礎産業育成に注力していた(「糸へん」「金へん」ブームと呼ばれた成長期で、前者は繊維産業、後者は鉄鋼産業を指していた)。しかし、日本経済が本格的な成長軌道に乗るのは昭和30年代からのことだ。実際、30年には実質経済成長は10%を超え、さらに31年の経済白書には「もはや“戦後”ではない」と書かれていた。これは、このころから日本の経済活動が新しい局面を迎えていることを象徴的に述べたものだった。

昭和31年からの1年半ほどは、いわゆる「神武景気」と呼ばれるほどの活況を示し、高度経済成長への幕開けを見ることになる。いったん「なべ底景気」などと呼ばれる下降期もあったが、33年後半からは、いわゆる「岩戸景気」と命名された連続的な成長ぶりを示した。そして、技術革新に伴う設備投資の急増が成長を大きく後押ししていく。

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その設備投資は、石油精製、鉄鋼、電力、造船などの基幹産業から始まり、石油化学や繊維産業と言った戦後の新興産業へと広がりを見せ、同時に食品加工から映画産業などに至る比較的ソフトな領域にまで及んでいた。さらに、昭和35(1960)年の後半からは池田内閣による「所得倍増計画」が実施され、積極的な投資による所得向上の空気が日本国中を覆いはじめていった。

こうしてさまざまなジャンルの産業基盤が整備されるにしたがって、設備や建物の万が一のリスクに備える火災保険は顧客数を大きく伸ばしていく。

これも以前に記したことだが、Y常務・K常務から声がかかり、ブラジルへの出店準備のために京浜工業地帯の写真を海側から撮影したのも、このころのことだ。私のカメラは、その後の目覚ましい高度経済成長の土台となる力強い工場群を確かにとらえていた。