【第2章】復興から「成長」へ[第2部]「場」を生き抜く

“企業戦士”としての成長 [昭和41(1966)年〜昭和45(1970)年/38歳〜42歳]

高度経済成長を下支えする
保険マンとしての気概

高度経済成長期のまっただ中、私は見事に“企業戦士”の一人だった。

与えられた目の前の仕事に専念する、そうすれば自分の生活は上向きになるはずであり、ひいてはこの国全体が豊かになるはず…。日本中の多くの勤め人がそう思い、結果として国力の指標の一つである経済成長の向上に寄与していたように思う。

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そして、日本の社会全体が“豊かになる”ということと、自分たちの生活もまた“豊かになる”ということが同時並行的に進み、国の経済成長と自らの生活向上のイメージが交差する。それが当時のサラリーマンの生きる意味の見出し方だったのではないだろうか。

戦争の時代を経験した世代には、まだ心の奥底に敗戦という「負の経験」を克服したいという強い思いがあったかもしれない。その思いを何とか乗り越え、自分たちの自信を取り戻そうと、経済的・物質的豊かさをめざして奮闘していたのが、高度成長期の“私たち”の姿だったとも言える。

あの時代、この国の経済を牽引しているという自負を持った財界人・経営者や官僚、あるいは特別な問題意識を持った知識人ならいざ知らず、大半のサラリーマンの視界には自分の仕事に係る相手(顧客、上司、同僚、つまり自分が直接係る関係者)しか入っていなかったのではないか(すべてのサラリーマンが、とは言わないが)。とりわけ金融業界に生きていた人間は、政府の経済・財政政策に主導された “護送船団方式”の数多の漕手の一人として、きわめてドメスティックな仕事領域で自分に充てがわれた1本のオールを漕いでいたと言っていい。

自分がより広い社会(あるいは世界)とどのように係わっているのかを考える時間はほとんどなかった。たまにそんなことが頭の中に浮かんでも、それは、政治や国際情勢の記事やニュースを新聞紙面やテレビに見出したり、あるいは、同僚と夜の巷で杯を傾けてから家路につくまでの一人の夜道だったりした。日々、頭の中の大半を占めていたことは、自分に与えられた仕事を当たり前のように精いっぱいこなしていくことであり、そしてたまに家族や友人の息災を願うことだった(“企業戦士”とはそういうものだろう)。

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もちろん、顧客(つまり被保険者)と直に接しているときには損害保険がいかに顧客や社会に役立つかということを実感できた。だが、その思いだけが自分の直接的な仕事のモチベーションを成立させていたかどうか、率直なところ、自信はない。それよりも、まずは自分の生活の糧を得るための仕事であるということの方が正直なものだったと思う。

だからと言うわけではないが、仕事に集中する日常生活の中では、損保会社のサラリーマンとしての生き方に何ら疑問を持ったことはなかった。むしろ、損害保険という観点から顧客(個人・法人を問わず)にいくばくかの“安心”を提供し、それによって自分たち保険マンも高度成長期の日本経済を下支えしているのだという気概を持っていた。万が一の時の損害を担保する損保があればこそ、経済活動に邁進できる社会が成り立つのだという自負である。重厚長大といった当時の基幹産業とは別の次元で、損保事業が日本の経済成長全体を支えているのだというこの考え方は、仕事を全うする上での精神的な支柱となっていたと言っていい。

であればこそ、世の中のためになっている仕事だという実感とともに、それによって得られる報酬で家族がそれなりの生活ができている、その自分のあり方を肯定的に捉えることができた。そして、社会に役立つ仕事で得た報酬(給与)によって自分と家族の生活が次第に豊かになっていくことは、喜ばしいものに違いなかった。

例えば、かつて父の資金的な援助によって購入したダットサン1000をブルーバードに“進化”させる(つまり買い換える)ことができたことも、私の勤め人としての働きの成果だとごく自然に思っていた。そのブルーバードに家族や友人を乗せて休日のドライブを楽しむことは、私なりに自分の生活が向上していくことの“証し”だったのである。

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しかも、その一見狭いように見える仕事の舞台(個々の仕事現場)でこそ、多くの人たちに多くの物事を学んだし、その結果、人として磨かれるものがあったと思う。損保ビジネスにおけるさまざまなリアリズムをこの頃から肌身で感じ、企業社会の表裏に張り付いているあらゆる「知恵」や「ビジネスノウハウ」を、あるいはまた処世術や「手管」を、上司や先輩、取引先などから教えられ、吸収していくことになる。

そうして蓄積してきた経験知に従って生きていくことによって、身近な社会とつながっている確かな自分を見出していた。そしてそこには、仕事を通してこそ社会的な存在としての自分の成長と成熟があるという感覚があった。自分の中に、損保ビジネスにおける“職人”感覚が育っていたと言えなくもない。

顧客との丁寧な関係づくり
見方が変われば、行動が変わる

この頃の一つのエピソードを思い出す。昭和40(1965)年頃、東京営業部工場第一課に所属し、石油担当をしていた時期の話だ。

当時、安田火災は、N石油精製(有力な顧客の一つだ)のN第一製油所の幹事を引き受けていた。それ以前には長くT社がN石油精製の幹事となっていたが、損保会社の間に競争原理を導入してはどうかという提案が採用され、成果に応じて幹事やシェアが変動する制度が導入されることになったのである。

そして、近く着工が予定されていたN第二製油所の幹事が、一旦T社の仮決めとされ、その後の各損保会社の努力によって最終決定されるということになった。各社の努力次第とは言うものの、日頃出入りしている担当者の双肩にすべてがかかっているというのが実際だった。それは、「各社担当者のアイデアコンテストですよ」という、N石油精製のI係長(保険業務の窓口になっていた)の言葉に端的に表されていた。

第一製油所と並んで、第二製油所の幹事までを獲得すれば、これは打者一掃のチャンスに違いなかった。担当の私たち工場第一課は、何としてでもクリーンヒットを打とうと強い決意でこの案件に臨んだ。

ある種の日本的な契約慣行かもしれないが、通常、企業物件の火災保険契約は、系列や持ち株などで幹事が決められることが多く、これが一旦決まると長く継続される傾向が強かった。しかし、N石油精製はアメリカのC社との合弁会社ということもあり、アメリカ式にドライで割り切った契約プロセスを踏む、進んだ会社として評判を得ていた。

したがって、どの損保会社と契約関係を結ぶことが自社にとって最大のメリットになるのか、保険担当であるI係長の冷徹な評価は、その一点に向けられていたと言っていい。当然、私たち担当者も、I係長の一挙手一投足に全神経を集中せざるをえない。しかし、I係長は有能であり、なかなか手ごわい。

「こちらでもわかるような当たり前の提案なんかしないでくださいね」

「この現場の建設工事保険の保険料はおいくらですか? 会社へ戻って相談? それでは御社にはお願いできませんね」

すべてが万事、この調子なのだ。

そこで、I課長を訪問する時には、どんな質問にも即答できるよう万全の準備を怠らないことはもちろん、当時は珍しかった機械式の小型手廻し計算機(丸善で個人的に購入したリヒテンシュタイン製の通称「クルタ計算機」)をカバンの中に忍ばせていた。電卓などなかった時代のことだ。

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しかし、準備と装備だけ万全でもクリーンヒットは打てないし、他社と同じようにやっていたのではなかなか得点には結びつかない。思案を重ね、労力と時間を惜しまない新たな戦略に出ることにした。少なくとも月に2回は工場を訪ね、40万坪の製油所内を自動車でゆっくり巡回することにしたのだ。その方法によって、工場内のどんなに些細ささいな出来事も情報として把握し、あるいは、場内のさまざまな人たちと知り合う(それによって情報も得られる)ことがその目的だった。

振り返って率直に記せば、どんな情報がキャッチできるかわからないままに、手探りで始めた苦肉の策だったと言える。工場の火災保険の幹事会社であっても年に1回の料率算定物件調査を行うのが普通の時代に、毎月定期的に工場内を見まわるなどということは常識外れだったに違いない。

人のやらないことを繰り返しやっていると、“成果”に結びつくような貴重な“タネ”が、意外に向こうからやってくるものだ。

あるとき、毎月の度重なる巡回の際にお近づきになったK総務部長から貴重な話を伺うことになった。製油所内の道路を走行中のタンクローリーが、交差点で貨物車と軽く接触するという事故が起こったというのだ。もし、強くぶつかってタンクローリーが横転でもしようものなら、道路沿いに敷設してあるパイプライン(工場内に蜘蛛の巣のように張り巡らされ、原油やガソリンが高圧で流れている)に火がつき、重大事故になっていたかもしれない。

この危険きわまりない出来事のエピソードを聞いて、私は素人ながら不思議に思った。

「一般道路にはある道路標識が、なぜこの工場内にはないのか?」

もうおわかりだと思うが、この素朴な疑問がそのまま私の提案に結びつくことになる。要するに、一時停止や徐行、一方通行など道路標識を工場内の道路沿いに立て、一般道路と同じような交通ルールを工場内でも適応させるというアイデアである。

このアイデアを提案として示すと、普段は怖い存在だったI係長の顔がにわかにほころんだことを思い出す。

「そのアイデア、いただきますよ。さっそく全製油所に道路標識を立てることにします。ありがとう」

 その後、I係長とは以前にも増して親しく会話ができるようになったことは言うまでもない。

この一件を皮切りに、運転適性検査の導入やボイラ技師による事故予防研修会など、私たちからの新提案が次々と採用されるようになった。そして、これら数々の提案によって安田火災への評価は他社に何歩もリードする結果となり、ついにはN第二製油所の幹事獲得へと結びつく。

さらに、このN石油精製に対する諸提案は、その後、石油精製工場に特化され、火災保険としては最先端商品とされる火災保険SS(スペシャル・スケジュール)の創設へとつながっていく。これは、石油精製プロセスを構成する個々の装置ごとに個別のリスク計算を行い、その合算によって製油工場全体の料率を決める方式のことだ。石油会社にとっては全体の料率が合理的に判断できるため、評判がよかった。

しかし、この方式は石油精製過程と個々の装置の組み合わせや工学的な知識を相当に勉強しなければ一朝一夕にできるものではない。そのうえ、火災保険SSによる合理的な計算では全体的に料率は下がるので、結果的に全体の保険料は安く抑えられてしまうため、保険会社にとっては一時的な収入減につながりかねない。したがって、この方式を「自ら提案するのはバカだ」と言われていたほどで、安田火災以外は敬遠していた。

とは言え、ここが考えどころだった。工場全体の保険料は安くなるが、個別の装置をリスク計算する技術とノウハウがあれば個別の装置について検討できる。合理的なリスク計算を行うこの方式は計量的でわかりやすく、顧客を納得させやすいやり方であるため、保険会社としての信頼性の向上にもつなげられたのである。

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この頃は入社して10年以上も経ていたから、商品としての損害保険を売ることだけが営業マンの仕事ではないことぐらいは承知していた。だが、このN第二製油所の幹事獲得の経験を通して、顧客との接点を地道に増やし、そこに丁寧な関係づくりを行っていくことによって、自分たちが売るべき損保の商品価値が期待以上に高まっていくことを実感した。合理的な説得論理の修練とともに、顧客の懐に飛び込むことによって顧客を知るということが、私の経験知として確実にプログラムされたのである。

ここで私が会得したのは、一般的に損保営業で必要とされる技術的な方法に加え、相手との接触手法の柔軟性(フレキシビリティ)と言い換えてもいいだろう。

商品としての損保を顧客に提供する前提を創り上げるための過程では、定式化された方法や手法、ノウハウに頼っているだけではうまくいかない。損保の売り込みとは一旦距離を置いた立ち位置から相手を知るということが、実は却って相手との距離を近づけてくれる。これは同時に、視界を広げることによって、結果として多様な視点を獲得することにつながるという経験でもあった。

見方が変わり、見えてくるものが変われば、自分の行動も自ずと変わっていくのである。

「選んだのは自分だ」と責任を引き受けつつ
“諸関係”の荒波の中を生き抜くこと

仕事上の方法、手法、作法、戦略が経験知として蓄積されてくると、当然のことながら面白みが増す。核となる基本的な仕事のやり方は先輩・上司から伝承されるものも多いが、仕事の対象や相手が変わってくれば、そこに新たな“何か”を加味する必要が生じる。その新たな“何か”を編み出すこと自体が仕事のワクワク感を増していくことになり、次の仕事への大きなモチベーションとなる。

とりわけ人間を相手にした損保営業の仕事の根底にはワクワク感があり、その経験を繰り返すことによって、人として“磨かれていく”という感覚につながっていくように思えた。

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一方で、一つの会社の内外で自分なりの仕事スタイルを築き、それを維持していくことは、多様な “諸関係”の荒波の中を生き抜くことでもある。そこにはことの大小を問わず、軋轢あつれきもあり、ストレスもあり、人間としての感情の作用もあるが、ある程度自我を抑制しながらでなければサラリーマンは務まらない。

ただ、社外の関係者となら、会社や部署の責任を背負った利害調整の計算を働かせるのは比較的やりやすいが、社内での関係と利害の調整となると、実は潜在的にはそのまま個々の感情や自我のぶつかり合いであることが多い。企業は、つまるところ利益追求のための集団に法人格が与えられているのであって、その内部に生きる社員もまた、結局は会長・社長という経営陣を頂点とする利益追求のための競争集団ということに尽きる。その意味では、会社の人間関係には、正直、“ややこしい”部分がある。

入社して10年以上も経てば、会社という場所で目にするあらゆる風景に、良くも悪しくも、人間の「欲望」が渦巻いていることを少なからず意識させられが、社員である(つまりその会社というチームののメンバーである)以上、会社の発展に貢献しなければならない。

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与えられた仕事に習熟するうちに、何かを飲み込みながら、会社という利害と諸関係の渦巻く「場」をいかに生き抜くかが自然と身体に刻み込まれていく。そんな中でも、自分の人としての成長と成熟を肯定的に振り返ることができたなら、自分の人生の大切な部分を見落とすことにはならないはずだ。

無論、反省すべきことは多々ある。後悔も山ほどある。義憤を覚えた出来事や不快に思える人間関係もないわけではない。

しかし、一つの会社の中に身を置いてきた自分の人生を顧みたときに、「その都度、それを選んできたのは自分だ」ということの責任を引き受けつつ、その大半を肯定できる自分がそこにいるかどうかは、自分の人生に対する重要な問いだと思う。

救いがたいほどの邪悪さを携えたまま生き続けられる人間などいない。だとすれば、例え自分と反りの合わない人間に出会ったとしても、人の過ちに寛容であろうとする器量を持ち併せてさえいれば、自分の人生の大半は肯定的に記憶することができる。自分の“成功”を誰かの“おかげ”だと感謝することはあっても、自分に降りかかった“失敗”を他の誰かのせいにすることなく、最終的には、自分と係わりをもった全ての人たちと自分のあり様とを寛容に受け入れつつ自分の人生を全うすることができればいいのだ。

私は争いごとを好まない性分だ。個性むき出しで強固に自説を主張する方でもない。相手が明らかに間違った物言いをしたときには異論をさしはさむことはあるが、ことさら自分の欲を押し通すやり方は私の流儀ではない。

それでも、さまざまな人間関係にまみれていれば、遠ざけられたり、特定の人たちから排除されるという憂き目に遭ったりしたことはある。しかし、意識的に他人を貶めようとしたり、蹴落とそうとしたりしたことはない。きれいごとを言うつもりはないが、自分の品性を卑しめてまでも伸し上がっていこうという欲望が私には欠けているかもしれない。これは後ほど記すことになると思うが、この頃から「自分の欲は、単に競争に勝ち抜くとは別のところにあるんだな」という自覚が少しずつ芽生えていた。

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自分がヒラ社員である時代には、与えられた仕事を誠実にこなしていけば、その限りにおいて自分の納得もつくれたし、それなりの評価をもらえた。基本的には上司のアドバイスのうえに、同僚・後輩たちとの協力によって成り立つ仕事だから、同じ部署であれ違う部署であれ、普段は競争感覚よりも前向きな協力関係をつくっていく意識の方が表に現れる。しかし、自分の昇進の可能性が見えてくる頃になると、そう簡単な話ではなくなってくるのが会社という“社会”だ。

有り体に言えば、そこからはバカ正直には話せないようなことも出てくる。企業は本質的に階層社会であり競争社会である一方で、模擬的な共同体の側面も併せ持つ。会社は感情を持った人間の集合体であり、単に合理的で割り切ったビジネス上の関係とは別に、不合理で“ややこしい”事情や関係が生じる場所でもあるのだ。

私が考える“ややこしい”人間関係というのは、例えば、自分にそのつもりはなくても、妬みや嫉みなどの感情を一方的に持つ人間の存在を想定してもらえればいい。

感情を持った人間同士が集まっていれば、こちらに悪意がなくても、「自分は傷つけられた」と思う人間がいないともかぎらない。それに、自分の生き方自体を他人からとやかく言われる筋合いではないと考えるのは普通だろう。

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しかし誰でも、その人なりの信念と欲望に忠実に生きているのであって、その時にはそれで一生懸命だったのだと考えれば、いつかは必ず寛容な心をもって回顧できるのではないか。少なくとも私は、死ぬまでにはそういう寛容な境地に達したいと思い願っている。

まさか私が? サプライズ人事
山口顧問と交わした覚悟の証文

抽象的な物言いがすぎたかもしれない。もう少し事実に則した話に戻ろう。

年功序列が当たり前だった時代、企業はいま以上にはっきりとした階層社会であって、自分の社内的な地位が上がりそうな時期になると、同期入社の者たちとの潜在的な競争意識というものが頭をもたげてくる。何より、昇進はそのまま基本給プラス諸手当の上昇を意味するものであり、地位ばかりでなく生活の潤いに直結する問題でもある。そこに個人の欲が優先される感覚が働くのは当然だろう。

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私の場合、本来の学年よりも3年遅れて入社しているうえ、入社後も約1年数カ月の病気療養のために本給の昇給が2年遅れている身だった。そもそも社内制度の内規では、本給が一定の額に達していない社員は、管理職への階段を上っていく資格がないのだ。だから私は、同期入社の連中との出世競争など考えてみることもなかった。人事異動の季節が近づくと、上司に昇進の推薦をもらうべくいろいろと動き始める者もいるが、私にはそんな運動とは無縁だと思っていた。

ところが、である。昭和42年のこと、東京営業部工場第一課で石油物件を担当して2年目だったか、私が課長に抜擢されるという“とんでもない出来事”が起こったのだ。受け取った辞令には、確かに「東京営業第二部第四課長に任ず」とある。これにはさすがに驚いた。目を見開いて、「まさか私が?」と本気で思ったのだ。

私だけではない。社内の誰もが想像していなかった、まさにサプライズ人事だ。

管理職への昇格については全くの蚊帳の外だと思っていので、最初はうれしいというよりも戸惑いの気持ちの方が勝ってしまっていた。昇格のボーダーライン上にいる何人かの同期からは、妬まれたかもしれない。一番避けたいと思ったのは、同期からネガティブな感情を向けられて、その後の人間関係から疎んじられることだった。

事実、多くの社員の想定を超えて課長に昇格した私には、想像した以上に厳しい視線が注がれることになった。

「あの男に課長が務まるのか?」

「この先、第四課の営業成績は大丈夫なのか?」

刺すような陰口が耳に入ってきたが、私が率いる第四課のメンバーの顔ぶれを見たとき、課のリーダーとして「これならやれる」と思わずにはいられなかった。集まってくれた部下の多くは、かつて3年間の新入社員教育を担当した時の“生徒”たちだったからだ。

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それは、一方的に教える従来の研修教育スタイルを排して、 “自発的に学ぶ”動機を育てることに心血を注ぐべく、私自身も方法的に試行錯誤した時期の後輩たちだった。昭和31〜33年(私より3〜5年遅れての)入社である彼らとは、陸軍幼年学校の時代の丁寧な教育をモデルとして、お互いを尊重し合いながら「教え-教えられる」関係を培ってきた仲なのだ。

ここで私の“やる気”が急上昇したことは言うまでもない。社内の冷笑など捨てておけとばかりに、「営業対象となる全ての種目で、必ず予算を達成しよう!」と、第四課に集合した部下たちの前で呼びかけた。すると、彼らは「やりましょう!」と威勢よく応えてくれたのだった。私も課のメンバーたちも、課のスタート段階から高揚感にあふれていた。

そのとき、ふと安田火災における私の育ての親の一人のことを思った。私の入社時、同期の教育担当課長だった山口茂さんのことだ。山口さんに私の課長就任の報告をしないわけにはいかない。

山口さんは、昭和36〜39年に取締役を務められたのち、この頃にはすでに業務の第一線からは退かれ、安田火災の顧問という立場にいた。3年前(昭和38年)に代表取締役に就任していた三好武夫社長の相談相手として、当時の安田火災の経営を影から支援してくださっていたのだ。

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山口顧問のオフィスを訪れると、「おめでとう」という一言を発したあと、私が謝辞を述べる間をふさぐかのようにこう言葉をつなげた。

「ところで、君は営業課長として収入予算は達成できるかね?」

おだやかな口調だが、問いの中身は厳しい。

「はい…、なるべく達成するよう努力いたします」。

課員の前では士気を鼓舞するつもりで「必ず達成しよう」と気勢を揚げたが、まだふたも開けていない課長としての業務について、必要な情報すら得ていない段階ではこう答えるしかない。すると山口顧問はこう切り返してくる。

「君、もし予算が達成できないときには、どうするのかね?」

山口顧問の質問の矢は、どこから飛んでくるかわからないのが常だ。頼もしい部下たちを率いるリーダーとして意気も上がっていた私だったが、途端に冷水を浴びせられた気分になってしまった。私はあまり深く考えずに咄嗟とっさに答えてしまう。

「もし…予算未達の場合は……管理職を返上させていただきます」

「ほー、それは大した覚悟だ。ならば、その決意を一筆、ここに書きなさい。私が預かっておきましょう」

山口さんが「仕事の鬼」と呼ばれる理由は、まさにここにある。昇進で浮かれているかもしれないかつての部下の心を引き締め、その決意を確実な成果に結びつけさせるための技が、いま、老獪な仕事師によって示されているのだ。

私がしたためたのは、次のような珍奇な文章だった。

「小職、万一収入予算を達成できなかった場合には、課長職を降格されても一切異議は申し立てません」

紙の上に緊張気味にペンを走らせていた私は、思案していた。

「この文書を山口顧問に渡してしまえば、まさに人質を取られるようなものだ。そうせずに納得してもらうことは可能だろうか?」

挙句、私は次のように言い放った。

「この証文、山口さんにお渡ししてもよいのですが、私の日々の励みのために、常に自分の背広のポケットに携帯していた方がいいと思うのですが…、いかがでしょう?」

冷や汗もので口にした私の言葉に、冷静な山口顧問の口元が少し緩んだ気がした。そして、静かな口調でこう言うのだった。

「そうだな。肌身離さず持ち歩けば、効果も絶大だろう。まぁ、しっかりやりなさい」

「しめた!」とは思ったが、顧問から刺すような眼力を向けられ、私はひとしきり唾を飲み込み込んだ。そして、一言添えるのがやっとだった。

「はい、粉骨砕身ふんこつさいしん、やらせていただきます!」

山口顧問の部屋を後にしたとき、私の課長としての予算達成の決意は、以前より増して地固めされていた。

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さて、課長就任の初年度、つまり昭和42年度のこと。この年、大口得意先の食品メーカーで、火災保険のシェアが50%から42%にダウンすることはわかっていたが、保険金額を上げてもらえるよう働きかけ、減少額を最少に食い止めることに成功した。

さらに、本店営業部では珍しかった月例代理店会や研修会など、およそ考えられる限りの新機軸を次々と打ち出し、すべてを実行に移すことによってわが課の士気は高まり、予算上の成果に結びつけていく。そして、やる気に満ちた優秀な課員たちの努力の積み重ねによって、収入予算の達成が叶ったのである。

かくして私の課長就任初年度において、山口顧問の目の前で記した証文の内容は発動することはなかった。

新米営業課長、全種目予算達成す!
“危機”を乗り越えさせてくれた人たち

課長就任の初年度は何とか予算をクリアできた。では、2年目(昭和43年度)はどうだったか?

どこの会社でも同様だろうが、通常、年度を4つに分けて四半期(つまり3か月)ごと年間の収保見込みを見積もりながら次の四半期の業務計画を立てる。課長就任2年目の昭和43年度、最後の四半期に入って見積りを取ってみると、火災保険では収入予算をかなりオーバーする一方で、新種保険と自動車保険ではそれぞれ大きく穴のあくことが判明してしまった。

このとき私は、デスクの引き出しにしまってある例の証文(あの山口顧問の前で書いた証文だ)のことを思わずにはいられなかった。前年の1年間は背広の胸ポケットに忍ばせてあったが、携帯し続けていてシワだらけになってしまったので、この年からは引き出しにしまい込んでいたのだ。

この収入予算の件、私としては、「新種保険と自動車保険ではそれぞれ予算未達になってしまうが、火災保険を加えた全種目の合計なら予算は達成されるのだから問題はないだろう」と考えていた。しかし、自分流のその解釈には一抹の不安があった。「それで例の証文の文言通り、問題ない」と、山口顧問が納得してくれるだろうか?

こういうときには率直に相談することが一番だ。これは、山口という人との長年の付き合いで身体に染み付いている。私は山口顧問のオフィスに改めて足を運んだ。すでに年は明けて昭和44年の2月になっていた。

そこで山口顧問にひと通り説明したあとで、「この考え方でいきますが、よろしいでしょう」という自己肯定的なニュアンスを口にしてみた。すると顧問はニコリともせず冷たく言い切ったのだ。

「君ね、そいつは困ったことになるよ。予算というものは、各種目ごとに明確に決められているものだから、一種目でも赤字になれば、予算達成とは言えないんだ。予算の責任者たる君の覚悟はそんなものなのか?」

一瞬、「全体で達成すればいいじゃありませんか?」と、言い訳じみた言葉が喉まで出かかった。だが、私の顔に見入る顧問の両眼には、「どんな抗弁も受けつけないぞ」という厳しさが宿っていた。私は「わかりました」という言葉だけをかろうじて口にした。引き下がざるをえなかったのである。

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しかし、年度の決算まであと1か月と少ししかない。

課に戻ったとき、私は部下たちにどのように話すべきかを迷っていた。

「この件を自分の胸にだけしまっていたのではこんなに短期間には対処できない。課全体で乗り切る手立てを見出そう。そのためには“危機”感を共有することが必要だな」

そう考えると、私はすぐに課員を集めた。そして、山口顧問との会話の中身を話したうえで、こう言った。

「君たちが知恵を絞ってギリギリの数字を出してくれたことはよくわかっている。それには感謝している。だが、課としてはもう一歩駒を進める必要がある。何とか全種目の予算達成に持ち込めないだろうか?」

この異様とも言える私の訴えに対して、しばらく重苦しい沈黙が漂っていた。すると、日頃から私の眼に優秀だと映っていたK主任が最初に口火を切った。

「根拠を示せと言われると困りますが、私は新種保険120万、自動車保険80万を引き受けましょう」

「ならば私は、新種100万、自動車50万を上乗せします」

では私も、私も…という課員たちの声が次々に上がったとき、リーダーとして仕事に対する彼らの熱意を誇らしく思った。

もちろん通常の営業場面なら、予算達成の根拠を明確にさせてからでなければ単なる見切り発車とみなして諫めるところだが、この“危機”に際してはそんなことは言っていられない。こんなときには、数字の根拠ではなく、普段から培ってきたネットワーク力と勢いに任せるしかないのだ。課員たちは、まさにわが課の“危機”を直感し、瞬時に何をすればいいかを合点してくれたのである。

新入社員教育を担当した頃からの後輩たちとの付き合いが、私への力強い支えになってくれていることに深く感謝した。こうした課員たちの自発的な士気の高まりによって、昭和43年度の予算達成の見込みを立てることができたのである。

課員たちが必死で営業情報を収集したり発信したりしていれば、私たちのこの “危機”的な課題は普段の営業ネットワークを通じて社外にもいつの間にか拡散していく。すると、いくつかの有力な代理店にもこの話は伝わり、「それなら一肌脱いであげよう」という声が続けざまに出始めた。ありがたいことだ。

とりわけ、代理店AサービスのY保険部長からは、ある運送会社の自動車保険の切り替えを300万円ほども応援してくれるという話をいただき、際どい交渉の末に、C保険会社からの切り替えを実現してくださった。個々の勢いのいい流れが、より大きな流れへと束ねられたのだ。

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社の内外を問わないすべての関係者(最近の言葉で言えばステイクホルダーだ)との間に生じる日頃からの丁寧な間柄づくりが、まさに“危機”において自分たちを救ってくれるということが証明されたのだった。当たり前のことだが、誰も自分一人の力では生きられないのだ。

このようにして昭和43年度の最後の大波を乗り切りきった私の第四課は、そのまま次の44年度も一層勢いを得て、なんと3年間連続して全種目の予算達成を果たすことができたのである。

山口顧問との間で交わされた例の証文は、そのまま引き出しの奥で静かに眠りについており、ついに目覚めることはなかった。

大学騒乱のリスクをユニークな保険で担保
しかし、困った“副産物”が

営業担当課長としてさまざまな顧客との出会いがあったが、一つ特筆しておきたい事例がある。

昭和43(1968)年に全国的に広がった大学闘争の波は、翌年1月の安田講堂事件の終結によって次第に小規模化していったが、他大学での全共闘運動の余波は完全には収まってはいなかった。

そんな折、早稲田大学の学生部長を務めておられた葛城照三教授から、ある有力代理店を通して、「学生運動によって生じる大学構内の騒擾そうじょうのリスクを保険で担保することができないか」という問い合わせを受けた。

学生運動は既に早稲田大学にも波及していたため、葛城先生は、安田講堂事件のように万が一にでも大学の施設や建物が大きく損傷された場合のことを心配していたのである。私立大学では、建物などの損害を補うコスト支出は当然のことながら自前であり、それに対する補助が国立大学のように出されるかどうかはっきりしていないからだ(この点、法律的には明確になっていないと聞いていた)。

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ところが、これが難題だった。本来、何らかの集団が騒乱や騒擾を起こした結果に生じた損害は、通常の火災保険の拡張担保契約で引き受けるのが普通だった。しかも、この拡張担保契約は再保険先を見つけることが条件になっている。しかし、大学構内における騒乱・騒擾を再保険先として引き受けてくれる保険会社は見つからず、世界最大の再保険シンジケートを抱えたイギリスのロイズ(保険組合)ですら、この再保険の引き受けには難色を示していた。

ちなみに、葛城先生は保険学(特に保険法)の泰斗で、損害保険に関する制度的な問題点などについて私たち損保事業者は大いにその恩恵に預かっていた。最初なかなか再保険の引き受け手が見つからない事態に対して、その葛城先生はこう苦言を呈したと言う。

「日本の保険会社は、いざというとき、そんなに引き受け能力がないのですか」

保険学の権威からこう言われてしまっては、損保実務を生業とする人間としては名誉にかけて突破口を開くしかない。私はそんな思いを強くし、この騒擾保険を何とかわが社で引き受けられないものかと、さまざま研究を重ねた。

そしてあるとき、火災業務部のS君からのアドバイスに心が踊った。S君はこう言うのだ。

「店舗総合保険では騒擾リスクを担保しているから、これなら自動的に国内で特約再保険に流せる」

なるほど、通常の火災保険で引き受けるのではなく、火災以外でのリスクも担保できる(騒擾リスクの担保も可能な)店舗総合保険に切り替えれば、特約再保険によって危険分散が可能となる。これを引き受けるためには、これまで個々の建物ごとにバラバラに契約していた火災保険を一本化し、わが社がその全体の幹事になる道も拓けるというものだ。

このような新たな引き受け決定の際には、当然のことながら、まず営業部長に報告し、そこでOKが出れば、具体的な実務の筋道を立てるために業務部に相談するのが基本だ。営業部長から「よし、やれ」という力強い了解が得られたので、私たちは業務部と新たな店舗総合保険契約の中身を作成し、ついにこのユニークな保険の幹事として早稲田大学と契約する運びとなったのである。このとき、私たち第四課の課員たちはそろって祝杯を上げた。

話がここで収まれば何の問題もない。しかし、新たな試みというものには、ときとして困った“副産物”がついてくることがある。

私たちが店舗総合保険の契約に成功したあと、損保協会の理事会でN火災の社長がこう発言したというのだ。

「学園騒動の保険を店舗総合で引き受けて、特約再保険で流したけしからん会社がある」

理事会でその言葉を聞いた三好社長は、「まさかウチじゃないだろうな」と社内での調査を命じた。

問題はここからだった。契約後、この件はある種の“悪知恵”、あるいは“からめ手”として同業者から批判されていることがわかると、にわかに風向きが変わってくる。

「他社を出し抜くようなやり方はアンフェアだ」とか、「アンダーライティングのセンスが欠けている」とかいった中傷が聞こえてくるのだ。営業部長の裁可を得ての契約だったにもかかわらず、実際の営業実務責任者である私に批判が集中したため、まるで罪人のような言われようだった。

大学教授救出作戦を敢行
大先輩からのうれしい承認の言葉

本来、保険マンはアンダーライティング・センスを備えていなければならないとされる。これは、相手の事情や背景、そこから想定されるリスク等の詳細を検討して、契約引き受けの可否や契約条件を勘案すべきという、業界人としての基本的なモラルと言い換えていいものだ。その意味では、私たちは、今回の事例の中心課題である学園騒動の実態を必ずしもよく把握しないまま、大学の建屋等に受けた場合の損害を担保するために、結果としてどんな保険形態がありうるかという“到達点”の方ばかりに気を取られていたと言っていい。

これは確かに反省すべきことではあった。学生たちのセクトやその行動、彼らが引き起こす校舎や講堂の損害、そのリクスのコストなど、引き受ける保険契約の“起点”となる情報から知悉ちしつしていくことが肝要だったのだ。

その意味では、私たちの考え出した店舗総合保険での引き受けは、業界の常道からすればいくらかアクロバティックな手法を取り入れていると言えなくもない。とすれば、私たちに対する批判は過度なものだったとは思うが、必ずしも的を外しているとばかり言えない部分もあったのである。

しかし社内では、暴走した担当課長が自分の一存で独走したという噂が流れていた。それどころか、「万が一この件で保険事故が起これば、担当課長は首になるかもしれない」という噂まで飛び出した。私はしばらく神経が高ぶる毎日を過ごすしかなかった。

そんななか、早稲田大学の大隈講堂が革マル派によって焼き討ちに遭うという出来事が起こった。だが、これは大学構外ということで今回の保険契約の対象とはならなかった。しかし、騒ぎはそれだけで収まらず、今度は別の校舎に革マル派が立てこもり、機動隊とにらみ合うという事態となった。

私はじっとしていられず、早稲田まで足を運んでその光景を学外から見守っていたが、そこに今度は、革マル派が葛城先生の拉致を目論んでいるという情報が入ってきた。聞けば、先生は関西からの帰路で東京駅に着かれると言うので、すぐに東京駅へと急行し、車でご自宅までお送りした。自分たちが考案した保険内容を評価してくださった先生をお守りしたいという気持ちからの行動だった。しかし先生をお送りする間も、学生たちと機動隊が相対する現場の状況が気がかりで仕方がなかった。

しばらくして、「いよいよ今日は機動隊が踏み込むようだ」という情報が流れた当日、革マル派は教室内の語学学習用の機器類を破損しただけで、戦わずして退去してしまった。大学側は予想以上に軽い損害で済んだわけだが、保険営業の担当課長としては、保険上の損害がきわめて軽微なものに留まったことが何よりも幸いだった。

ただならぬ緊張感のなかでの一連の騒動だったが、この一件を通して葛城先生からは謝辞をいただき、以来、早稲田大学の保険契約(火災保険を含む多種の保険)は安田火災が幹事を担当することになったのである。

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大きな保険契約に持ち込んだにもかかわらずさまざまな批判に曝され、あるいはまた早稲田大学の騒動のなりゆきに気を揉む毎日だったが、私はこの“事件”の詳細を山口顧問に報告しておくことにした。彼なら、私たちの保険契約上の問題点にも気づいているはずだと思えたし、一方で今回の保険の新規性やユニークさ、そして、これほどの保険契約に持ち込んだ経緯と手続きについて、評価と理解を与えてくれるだろうと考えたからだ。もちろん、いくらかの叱責も覚悟していたが…。

オフィスの扉を開くと、「お前が何を言いに来たか、わかっているぞ」という面持ちで山口顧問が待ち構えていた。そこで私は、ことのなりゆきの詳細を報告し、この件は課長としての自分だけの独断で決めたのではなく、営業部長の許可を受けた上での行動であったことを述べた。

私がひと通り語り終わると、顧問は、「よし、わかった。この件は社長に説明しておく」と言ってくださり、さらにこう付け加えるのだった。このとき山口顧問は、厳しい表情のほんの合間に、普段見せたことのない笑みを挟んでいた。

「新しいことをやろうとすれば、あちこちからの風当たりが来るものだ。“動”あれば“反動”ありだ。そんなものは気にしなくてもいい。しかし何だな、君もいろいろと“手練手管”を使えるようになったものだな」

入社以来のこの大先輩から、ようやく自分の仕事ぶりの一端を認めていただいたような気持ちが湧いてきて、うれしかった。それ以後、私と第四課のメンバーは、社内外での批判や中傷にひるむことなく、むしろ新しいコンセプトの保険契約を成し遂げたという自負とともに、以前より増して仕事に集中することができたのである。