【第2章】復興から「成長」へ[第2部]「場」を生き抜く

新たな保険ジャンルに分け入る [昭和45(1970)年〜昭和48(1973)年/42歳〜45歳]

三好社長による“180度の政策転換”
自動車保険の量的拡大へ

話は少しさかのぼる。昭和38(1963)年の暮れも押しつまった頃のことである。

当時の私の所属は火災業務部業務第二課。火災による間接損害を補填する利益保険の普及に努め、一方では新たな代理店研修制度の企画立案に汗をかいていた。まだ若輩の私が提案し、図らずも採用された例の「業界首位をめざす」という“T号作戦”が、実際に経営戦略として打ち出され、各事業現場で具体的な形になっていった時期だ。

ある日、急きょ招集された主管部の課長会議から戻った火災業務部のM課長が自分の席に着くなり、こう叫んだのだ。

「社長は頭がおかしくなったぞ!」

抱えていたノートをデスクに叩きつけながらの発言だけに、私は思わず駆けよった。

「何があったんです? 社長がどうかされたんですか?」

「自動車保険をやるって言うんだ。わが社の前途は絶望的だよ、まったく!」

M課長の発言に疑問を持たれる人がいるかもしれない。損保会社の経営者が自動車保険を積極的に売り出すと言うと、なぜ頭がおかしくなったことになるのか? そして、なぜ会社の前途が絶望的だということになるのか?

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この昭和30年代の以前、損害保険と言えば、基本的には主な2つのジャンルに分類されていた。船舶やそれによる運送の保険を中心としたマリン保険と、火災や建設保険などを中心としたノンマリン保険だ。前者は海上の、そして後者は陸上の損保の代表格である。損保会社の社名に■■火災、▲▲海上などとあるのは、それぞれの会社が創立当時の中心的な事業分野を社名に冠していたからだ。この2つのジャンル以外の保険は、いわゆる「新種保険」と称され、その市場はまだ未開拓であり、採算も不透明だった。

当時、翌年の東京オリピックのために首都高速道路などの工事が急ピッチで進められていたとは言え、都内の靖国通りや甲州街道などの大きな道路でも自動車は数えるくらいしか見られない時代だ。この頃の自動車保険はまさにこの「新種保険」に分類されていて、それまで火災保険で仕事をしてきた保険マンの間でも「儲からない保険」として毛嫌いされる傾向にあった。だから、M課長のきつく吐き捨てるような言い方は、当時の私たちには大いにうなずけた。現在のようなモータリゼーションが高度に発達した時代からは、考えにくいことかもしれない。

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しかし、このときの三好武夫社長の決断がなかったなら、その後の安田火災の企業としての成長はなかったと言っていい。“180度の政策転換”と言われた三好社長のこの決断によって、自動車保険はもちろん、ノンマリン保険分野全体の量的拡大が進み、さらには火災保険を含めた全保険種目に及ぶ拡大均衡が実現していったからだ。

それにしても、なぜ三好社長は当時破天荒とも言われた自動車保険の量的拡大に踏み込むことができたのか?

翌年の昭和39(1964)年2月から自賠責保険料が3倍に引き上げされること(政府の自賠責審議会通達による)も、外的な要因としてはあった。だが、それだけでは決断できない。実は、三好社長は経営の中枢を担うことになるずっと以前から、時代の節目を感じ取り、将来の損害保険の市場動向を研究していたのだ。アメリカ駐在員から自動車保険に関する膨大な量のレポートを取り寄せ、アメリカにおける自動車保険について詳細な調査・検討を行っていたのである。

三好社長は、既に昭和30年代に当時のアメリカの現状から今日のようなモータリゼンーションの予兆を読み解き、火災保険中心だった事業から自動車保険の重視へと立ち位置を移すことによって、時代に則した保険市場の新たな育成と安田火災の社会的使命の拡充を展望していた。

将来、必ず増えていく自動車の運転者に少しでも安心を提供するには、火災リスクを火災保険によって担保するのと同様に、自動車の事故リスクを保険によって担保する必要がある。その意味では、自動車保険事業の量的拡大(質的拡充は後年の課題になる)、損保企業としての社会的な意味づけ、位置づけを確かなものにしていくためには必須のものだった。

もちろん、この経営理念の延長線上に、自社の損保企業としての成長という明確なビジョンが含まれていた。まさに慧眼けいがんと言うべきものだ。

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無論、社内には反対論も多かった。というのも、昭和30年代においては、どちらかと言えば、オート三輪車やトラック、バスといった乗用車以外の事業用自動車が多く、一般乗用車の生産増はまだ見通しが立っていなかった。事業用自動車は事故率(損害率)が高いため、大胆な政策転換の先行きについて疑問を持つ社員も多かったのだ。

そんな社内の異論を見越していたのだろうか、三好社長の調査・検討は用意周到だった。損害率が高いのなら、料率の調整、引き受けの技術的課題、営業・売り上げ規模の利益計算などといった複眼的な視点からトータルな問題解決を図ろうと、ことあるごとに説明部会や検討部会を開き、異論を持つ社員への丹念な説明を怠らなかった。予想される種々の課題に立ち向かうため、問題解決型の思考で対処していったのだ。こうして、自動車保険に向けた不退転の政策転換が社内各部署で具体化されていくのである。

しかし、この自動車保険の量的拡大の道のりは、必ずしも平坦ではなかった。

当時の国内自動車産業はまだ欧米の乗用車の質には太刀打ちできるほど成長しきれていなかったため、当初は乗用車向けの自動車保険の売り上げも想定したほどの伸びを示さなかった。これが昭和40年代に入ると、貿易の自由化という経済政策の後押しもあって、メーカーの量産体制の確立・強化が進み、乗用車の生産がうなぎ登りに増大する。

そのせいもあって、確かに自動車保険の売上自体は伸びたのだが、今度は別のところに大きな落とし穴があった。交通ルールや道路も今日ほど整備されておらず、急増した運転手のドライブテクニックも未熟なケースが多かったので、交通事故が急激に増加してしまったのだ。これが保険金支払の増大につながり、収支成績は悪化の一途をたどった。その結果、昭和44年度の決算では自動車保険単独で40億円の赤字(損失金の計上)を出してしまったのである。

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それでも安田火災の拡大均衡路線は貫徹されていった。そこには、昭和38年に発信された「自動車保険政策転換について」と題する通達に込められた、三好社長の経営者としての意志が宿っていた。それは次の文言で表されている。

「儲からないからやらないと言うのではなく、損をしないようにこれを伸ばしていくところに経営者の責任がある」

再度のサプライズで自動車業務部の課長に
「信念を貫け」という社長命令

この自動車保険への大転換のスタート段階では、私は実際にはこの事業に関わってはいない。しかし、さまざまな検討部会が開かれ、社内に新たな経営戦略を丹念に浸透させようとしている勢いを察知し、「会社が大きく動きつつあるな」と、期待混じりの感慨を持ったことを覚えている。安田火災に勤める一人の社員として、会社の将来を導く大きな事業転換の成り行きに、着目しないわけにはいかなかった。

この間のこと、東京営業部工場第一課(石油担当)から東京営業第二部第四課長に昇進していた頃の話だが、私はたまに重要な相談を携えて山口茂顧問を訪れることがあった。そのとき、山口顧問からアメリカの自動車保険事情に関する資料を見せられたことがある。損害保険に関することについては全方位的な研究心を持っていた山口顧問は、三好武夫社長が経営の大転換を決意するために必要なアメリカの先駆的な業界情報を、誰よりも先んじて収集していたのである。社長が最大限に信頼し、長年のアドバイザーを務めていた「仕事の鬼」、山口茂氏らしい逸話だ(当時この事実を知る人は、社内でもあまりいなかった)。

そんななか、昭和45(1970)年6月、突然、自動車業務部業務第一課長の辞令を受けた。初めて課長に昇進した時とは別の意味で、またしてものサプライズ人事だった。

これは、前年度には大赤字だった自動車保険を軌道に乗せるための基本方針を立案・実行する重要ポストだ。周囲は唖然とし、「貧乏くじを引いたな」とあからさまに言う者もいた。

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このとき、多様な難題を背負わされ、会社の将来が左右されるかもしれない自動車保険を担当する新米課長に、いろいろアドバイスをしてくれたのは、やはり山口顧問だった。そして彼はこうも言い添えた。

「社長のところへ挨拶に行ってきなさい」

課長ごときが、呼ばれもしないのに自分から社長のところへ出向くなどということは、いくらなんでも破天荒だ。いささか躊躇していると、山口顧問は「いいから、行きなさい」と強く促すので、おっかなびっくりで社長室へと足を運んで行った。

私はこのとき、13年ほど前の“ある事件”を思い出していた。

組合と会社との間で給与体系の改定が問題になった際、総会での私のイレギュラーな発言が原因で、一人、銚子支部へ飛ばされそうになったことがあった。そのとき、自分の“濡れ衣”を晴らすために、当時の人事部長、すなわち後の三好社長と、人を介して直に相対したことがあった。私はそこで、「伝聞だけで人を判断する人が人事部長をやっているようでは、この会社の将来は見込みがないですね」と、何とも威勢のいい言明をしてしまったのだ。若気の至りとは言え、怖れを知らない言い草だった。

それがいま、ヒラの一課長として(しかも新米である)、通常なら“雲の上の存在”である社長と、再び対面しなければならないのだ。

おそるおそる扉を開いて社長室に入って行くと、三好社長は何やら書類を見ていたが、チラッと私に一瞥をくれて、またすぐに書類に眼を落とした。そこで私は自分から何か言わなければと察し、「このたび、自動車業務部の業務第一課長を拝命いたしました、伊室です」と発言してみた。普段よりも高めの声になってしまった。

すると、少し間をおいて、「ああ、君か。俺、もう忘れたよ」という淡白な一言が戻ってきた。

最初、「この人は何を言っているのだろう? 『忘れた』とは何のことだろう?」と思った。言葉の意味がわからないのだ。

だが、ほんの数秒後、私は背筋に冷や汗を感じるしかなかった。わざわざ「忘れたよ」と言うのは、実は「覚えているぞ」ということの裏返しなのだ。

では、三好社長が何を「覚えている」かと言えば、あの「13年前の威勢のいい私の言明」を、である。

ただ、これは三好社長一流の“おとぼけ”にすぎなかったことがすぐにわかる。

自らの言葉で緊張が極度に高まってしまっている私を見ると、社長は「まぁ、座りなさい」と私をソファーへと促した。そしていきなり、こう言うのだった。

「この先、大変な仕事になるとは思うが、君が真剣に検討してこうだと思ったことは、部長が反対しても、常務が反対しても、絶対に説を曲げるな。いいな!」

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これまで社内では決して言われたことのない最高責任者からのもの言いに、私は思わず異論を挟んだ。

「しかし、私もサラリーマンですから、上司に逆らうことなんかできません」

すると即座に社長の叱責が飛んできた。

「バカもん! 社長のオレが言ってるんだ。とにかく、自分の信念を貫くんだ!」

このやり取りには、三好社長の直感による重大な意味が隠されていた。しかし、それが私なりに納得できるようになるには、自動車保険に関する実態と問題点、それに、この保険を扱う人材の現状について、より深く知ること、そしていま少しの時間が必要だった。

ただ、三好社長のこの言葉が、その後の私の仕事への姿勢を強く後押ししてくれたことは確かだ。そこにもまた、社長の自動車保険事業に対するただならぬ熱意と確信が込められていた。

自動車保険の“引き受け規制措置”に違和感
優秀な部下たちの協力でこれに抗う

このころの自動車保険業務では、1会計年度における決算上の収支(売り上げと年度内保険金の支払いの収支。業法決算と呼ばれる)はわかっていても、万が一事故が起こったときに支払うべき、年度を越えた保険金(支払備金)を含めた実態計算は明確にはなっていなかった。将来的な交通事故件数や事故状況は現状でのデータを参考にして大枠で予測するしかなく、したがって今後支払われるべき保険金の実態計算は精緻さには欠けていた。その定式は必ずしも確立されていなかったのである。今から考えると、いささか荒っぽい手法がまかり通っていたものだ。

しかも、前述したように、昭和44年度の決算では自動車保険だけで40億円の赤字を出したため、保険事業としての行く末を不安視し、このまま自動車保険を続けると会社が潰れると公言する人も出てくる始末だった。

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そこに、昭和45(1970)年6月、私が自動車業務部業務第一課長になったとほぼ同時期に、自動車保険の特に対人賠償保険料率のアップが認可された。なかでも対人賠償は3倍のアップだった。モータリゼーションの発展で交通事故がますます多発するだろうという予測の下で、保険業界が保険料率の改定を大蔵省に申請し続けており、それがようやく認められたのである。

昭和43年頃から「事故率の高い貨物車や営業車の保険は引き受けるな」という引き受け規制が始まっていたが、その大幅なレートアップがあっても採算には合わないだろうという見方が、まだ業界内では根強かった。それほどまでに自動車の全体量が急増し、事故率もあなどれなかった時代だ。

そして多くの保険会社が、「料率が上がったときこそ契約は拒絶しやすい」などと、トラックを使う運送会社やバス会社、タクシー会社の引き受け規制を続けていたのである。

安田火災もこの業界全体の動きに合わせて引き受け規制を講じていたが、安易に引き受け拒否をすると、顧客から反発があるのは必至だ。実際、他種目の保険も含めて他の損保会社へ切り替えると開き直る顧客も現れた。自動車保険担当の課長としては、「売るべき保険を売らないように規制している矛盾」に、強い違和感を抱き始める。

とは言え、なかには自動車保険の役割の重要性をしっかり理解してくれている顧客もあり、「何とか引き受けを継続してもらえないか」と泣きつかれる場合も少なくなかった(これはむしろ安田火災との間に信頼を培ってくれている顧客だ)。

そんななか、その年の7月から8月にかけて二種貨物車の保険契約台数が半減している資料を目にした私は驚愕した。

「レートアップ後2か月にして半減とはあまりに急激な変化だ。これはただならぬ事態ではないか」

私は、「このままでいいわけがない、事業としてこのまま自動車保険を続けるためには、それまでのような精緻さにかけた計算法(業法決算)ではなく、自動車保険の正確な収支を割り出す精密な実態計算が不可欠だ」という考えを固めつつあった。

このとき頭の中にあったのは、自動車業務第一課長に就任した折に山口茂顧問から受けたアドバイスだった。それは自動車保険を採算に乗せるための基本的な考え方だ。山口顧問はこうおっしゃっていた。

「正確な実態計算のためには、IBNRを正しく把握する必要がある。近い将来、この計算をしなくてはならない時期が必ず来る。そのための備えをしておけよ」

IBNRとは、「既発生未報告損害(Incurred But Not Reported Losses)」の略称で、事故は発生しているが未だに会社に報告されず未払いのままになっている保険金のことだ。この算出のためには、最小限の誤差の幅で精密なシミュレーションを行う必要があった。ただ、これは数学的に面倒な計算が伴うため、数字と計算法に強い人材を必要とした。

そこでこのとき、優秀な人材集めのために山口顧問の支援をお願いしたのだが、厳しい口調でこう切り返された。

「君は何のために新人教育の担当を経験したのか? 欲しい人材があるのなら自分の目で見きわめて、自分で課の編成を考えろ!」

山口顧問に言われてはっとした私は、新人教育を担当した時代に丁寧に付き合ってきた後輩たちの顔を思い浮かべた。確かにその顔ぶれのなかには、数学が抜群にできる者が何人かいた。しかも、計算に長けているだけでなく、合理的な説得論理を組み立てプレゼンテーション能力に秀でた者、あらゆる事態に対して柔軟なアイデアを出せる者等々がいたのだ。なかには、実際に私の部下として自分の能力を発揮してくれた者もいた。新人教育の担当経験を通して、私は後輩たちの多彩な才能や能力に直に触れてきたことを思い出していた。

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こうして自分の仕事を全うするために最適な人材編成をすることができたのだが、二種貨物車の保険契約台数が2か月間で半減したという資料を見るまでは、着任早々の新米課長というせいもあって、引き受け規制に対する違和感や実態計算の必要性を、自信を持って直属の上司に言い出せずにいた。

しかし、時は迫っていた。これ以上の引き受け規制が本当に会社のためになるのかどうか、曖昧で厳密さに欠ける業法計算にだけ頼っていたのでは、明確な解答を得られないまま、一層の契約件数の下落を招くことになる。社会的に責任ある損保企業たるもの、そんな状態を続けていていいわけがない。

そこで密かに、私の課の人材をフルに活かして、精密な実態計算に踏み切ることにした。とりわけ数学の得意な部下、N君やY君の計算能力はまさに百人力。以前より3倍アップした対人賠償の料率では、二種貨物車の契約も充分に採算が取れると確信するだけの結果が得られたのだ。

そして、その一目瞭然の計算結果を証拠として引き受け規制廃止論を展開すべく、思い切って上司の自動車業務のM部長(旧制静高の先輩だった)に進言した。すると、こんな答えが帰ってくるではないか。

「君はまだ素人だから、自動車保険の本当の怖さがわかっていないんだよ。もう少し勉強が必要だな」

おまけに、こうも反論された。

「今まで厳しい規制方針を貫いてきた本部が、急に方針を変えたのでは自動車業務部の権威が疑われることになる」

これには一瞬、「部だけの権威と会社全体の未来と、どっちが重要なのですか?」と、のどまで出かかったが、新米課長の身でそれ以上の論破は叶わなかった。そして私と第一課は、一時、部内で孤立状態に陥ってしまったのである。

社内抵抗勢力を読み込み済みの三好社長
私は非常手段に及んだ!

しかし、自動車保険契約の全体量が減る傾向は続き、他の保険と抱き合わせて契約を継続してくれていた顧客のクレームが目立って増えてきた。

「これまで火災保険と自動車保険をすべて安田火災さんにつけてきたが、今回トラックの自動車保険だけ引き受けを断られた。一度も事故を起こしたこともないのに、ひどいじゃないか!」

顧客ばかりではない。社内の他の保険担当部署からも、「君の部で自動車保険だけを断ると、他の保険まで他社に持って行かれてしまう。何とかならないのか?」という異論が続出した。

ここに至って、私は「こんなことをしていると、安田火災の自動車保険はいずれ自滅する」という思いを一層強くした。そして思い出したのだ。自動車業務部業務第一課長就任の挨拶に社長室を訪れた日、三好社長はおっしゃったではないか。

「とにかく、自分の信念を貫くんだ!」

社長は、「必ず古い経験則によって横車を押してくる、そんな抵抗勢力(つまり上司)と社内でぶつかる」ということを言いたかったのだ。まさに社長の想定通りの状況が私に降りかかっていた。

もちろん、「信念を貫く」とは言っても、抵抗勢力たる上司にストレートに抗ったところで埒が明かない。まっ正直にエネルギーを費やしていたのではまさに時間の浪費だ。その間にも契約件数は下落の一途をたどっていく。今は非常時なのだ。

そう思った私は、文字通りの非常手段に及んだ。と言って、社長へ直訴するという方法はさすがに憚られたので、まずは山口茂顧問に相談した。実態計算によって採算が取れるという資料を見せると、しばらくその資料に目を落としていた山口顧問から簡単明瞭な言葉が返ってきた。

「よし。この資料を添付して、すぐに上申書を作成しろ。私から社長に渡しておく」

そして1時間後、山口顧問に上申書を手渡した私は、部下とともに社長の沙汰を待つことにした。誰もが、緊張感のせいで無言のままだった。

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しかし、レスポンスは迅速だった。山口顧問から上申書が社長室に運ばれてしばらくののち、三好社長から呼び出しがかかり、私たちは自作した資料の計算根拠について詳細をただされた。私は実態計算の根拠について逐一丁寧な説明を試みた。そして、しばらくの沈黙ののち、固唾を飲んでいる私に向かって三好社長が口を開く。

「なるほど、計算は正確のようだ。結論は承知した。が、これで本当にいけるんだな。それがお前の信念だな?」

真剣な眼差しで語気強く問う社長に対して、私はまっすぐに答えた。

「もちろんです。綿密な計算の積み重ねで出した結果です。これ以上の信念と呼べるものを想像できません」

社長は再び刺すような眼差しを向け、「よし、わかった」と即答したのち、一瞬の間を置いてつぶやいた。

「よくやった。だがな、お前だけの手柄じゃないんだぞ。部下たちにもよろしく言っとけ」

このとき、社長の口元が少しほころびたように思えた。

その数日後、定例の役員会で自動車保険の引き受け規制撤廃が決定された。そして秋季の部店長会議において、三好社長から「自動車保険の体質強化について」という通達が発信され、この件は全社へと開示された。この通達には、「(社内に)『自動車保険は募集しなくともよい』という思想があるやに聞く。とんでもないことである」という文言があり、それまでの引き受け規制に対する猛省を促している。この三好社長の一喝するような言葉は、社内を震撼させたのだった。

しかし、その後しばらく社内では混乱が続き、各支店の業務課長から電話での問い合わせが殺到した。そのなかには、この規制撤廃の“要因”を作ったのが自動車業務部内の私の課であることを突き止めた支店長や支店課長が、厳しい口調で非難してくることもあった。

「昨日まで黒と言っていたことを今日から白と言うのか?」と、私の自宅にまで電話してくる支店課長もいて、辟易したことを覚えている。安田火災にとっての自動車保険の引き受け規制撤廃は、まさに“コペルニクス的転回”だったのである。

いや、安田火災だけではなかった。損保業界にとってもこの件は大問題だった。

私たち安田火災の引き受け規制撤廃は昭和45年秋に断行されたが、業界トップのT海上火災は二種貨物の引き受け規制をその後1年間続け、これを撤廃したのは46年秋のことだ。それとは反対に、昭和45年6月の料率3倍アップと同時に規制を撤廃したのがF火災だった。F火災は規制撤廃の当初、すぐに積極的な契約獲得を敢行したため、業界関係者からは「あの会社はつぶれるのでは…」と陰口をたたかれたが、現実にはこのときから大きく飛躍することになったのである。

振り返ってみれば、この自動車保険引き受け規制の問題は、きちんとした実態計算ができないままに先走った損保業界サイドに原因があったと言っていい。一方で、それまでの統計資料が充分に整備されておらず、業界も行政も、手探りのままことを進めていかなければならない時代だったのである。自動車保険に係る双方が、自分たちの実像をあまりよく見通せないないままに仕事をしていたことになる。

しかし、一時代の笑えない試行錯誤のようにも映るこの一連の出来事は、その後の安田火災に大きな課題意識を生み出していた。これ以後、コンピュータを使って複雑な計算を行い、常に収支を明確にしておこうという作業意識が高まったのだ。そして、種々の損害率表が作成され、損害率の計算法も定式化の作業が進行し、全社を揚げて自動車保険を軌道に乗せる方向へと大きく前進することになったのである。

またその後、監督官庁からは、自動車保険料率算定会による統計資料整備がなされない限り今後の料率アップは認められないという言明があった。そこで、業界としても自動車保険料率算定会を中心に各社が支払備金を含む統計資料を磁気テープで報告させるなど、料率算定の基礎となる整備を推進していった。

ちなみに、このとき社内で作成された損害率表と定式化された損害率の計算法は、当時のわが自動車第一課で作ったもの(部下たちと私の労作である)が基礎となっている。そしてそれは、今日の自動車保険業界全体に引き継がれている。

主張が通り、自動車保険約款の全面改訂へ
侃々諤々かんかんがくがくの議論から提案が形に

保険の約款の解釈をめぐってトラブルが発生するということを耳にしたことがある人は多いかもしれない。私の経験から言っても、「お客様のおっしゃることもごもっとも」と思える場合も決して少なくない。保険の素人である顧客にとって約款をわかりやすくすることはもちろんだが、なるべくトラブルを防げるような文言にしておくことは、保険業務従事者にとっても重要な責任マターだと言っていい。

実際、「損害保険の約款の文言が保険種目によって異なっているのはおかしい。統一すべきだ」という言葉が、昭和46(1971)年の秋、大蔵省銀行局保険第二課の担当官から損害保険業界に投げかけられた。これを受けて、当時、「自動車保険をこれまで以上に軌道に乗せるにはどうしたらいいか」という問題を抱えていた私たちは、「このタイミングで自動車保険約款を一挙に改定すべき」と考え、業界他社へもそのメッセージを発信していた。

ところが、前回(昭和41年)約款の全面改訂が行われた時には7年間もの歳月が費やされたという話が伝わってきて、業界では後ずさりをする会社が目立ち始めた。約款の全面改定論をバネに、自動車保険の量的拡大を事業戦略の柱にしようとしていた安田火災は、その段階で業界内の少数派になってしまったのである。

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そんななか、翌年(昭和47年)の正月に保険第二課の担当官、N課長補佐に挨拶に行くと、たまたま約款の表現と解釈の問題に話が触れた。すると、約款の全面改訂ということについて私と共通の意識を持っていることがわかり、賛意を示してくださったのだ。そしてN担当官は、数日も経たないうちに、「将来の自動車保険の健全な運営をめざして」という趣旨で、約款の全面的な見直しを行うよう業界に対して要請を出してくださったのである。

しかし、業界の業務課長クラスの委員会ではようやく約款全面改訂の空気が共有されたにもかかわらず、それは「総論賛成」という声にすぎないことがわかってきた。各社とも、おそらくは一筋縄ではいかないはずの改定作業を行う委員会に社員を送り出すことに躊躇していたのだ。いろいろ折衝を重ね、その結果として約款改定小委員会のメンバーになったのは、安田、東海、大正、大東京の4社のみ。それぞれ2名ずつ自動車保険業務を担当する課長、あるいはそれに準ずる社員を出すこととし、安田火災からの提案で、「毎日小委員会を開く」ことになった。

というのも、月に1回とか、週に1回とかいった一般的な委員会開催のテンポでは、またぞろ前回の改訂作業と同様に、とんでもなく長い歳月を要することになりかねないからだ。幸い、他の3社にわが社のこの提案が受け入れられ、ともに難作業となるはずの仕事を遂行する体制が整備されたのだ。

実際の改定手順の概略はこうだ。

まず、現行の約款全体をスクリーニングにかけ、委員会メンバーが少しでも具合が悪いと感じた個所を精査して拾い上げる。この場合、解釈の違いがトラブルの原因となりやすい損害査定の実務面での問題点をピックアップすることに重点をおく。

次に、この問題点を解決した改定案を作成する。この段階では、改めた新しい文言が独り歩きしても大丈夫か、あるいは、誰が読んでも解釈に齟齬は生じないか、さらに、新たな問題やトラブルを生じないか等々を徹底的に議論するのである。

このようにして改められた“小委員会作”の業界原案は、最初に保険実務や保険法の研究者(主に大学の先生や弁護士等の法律家)の方々に検討をお願いし、専門家の目で問題点などをご指摘いただく。そのうえで、大蔵省の担当官のみなさんに説明し、質疑応答ののちにさらに文言と条項の改良を行っていくことになる。

約款改定の作業中で、私が最も強く記憶するのは、「酒酔いおよび無免許運転者」による賠償事故に対して、賠償保険金を払うべきか否か(つまり有責か免責か)という議論の激しさだ。

酔っぱらい運転によって起こされる事故に保険金を払えば、無謀運転が増える可能性があるという理屈を立てることは、ある意味では自然なことかもしれない。この論法にしたがって、それ以前は免責、つまり保険金は支払われないということが約款上の取り決めだった。無免許運転についても同様である。

しかし、ちょっと立場を考えてみればわかることだ。この場合、もし運転者(加害者)に保険金が下りず、事故に遭遇した被害者が賠償金をもらえないことになれば、その被害に対する補償が充分には受けられないことが起こりかねない。加害者にまったく補償能力がなければ(大抵の場合、交通刑務所行きにはなるが)、被害者は単に泣き寝入りするしかないかもしれない。つまり、加害者が悪徳な運転をしたからといって保険金が支払われないのは、結果として被害者の立場を著しく危ういものにしてしまう。

「それでは被害者があまりに気の毒ではないですか。だから、被害者保護の立場を考えれば、このケースでは有責にすべきです」

これが私たち安田火災の意見だった。

これに対して、予想した通り、他社の委員会メンバーから、「事故抑止力の観点から反対します」という声が上がった。なかには提案した私に、「頭がおかしくなったんじゃないですか?」とあからさまな非難を浴びせる人もいた。とにかく猛反対に遭って、議論はなかなか噛み合わない。文字通り侃々諤々かんかんがくがくの論争の末、具体的な事故の複数の事例を検証してみることにした。すると、私たちが主張した通り、被害者が泣き寝入りするケースが多々あり、これを知った反対者たちも考え込んでしまったようだ。

結論を先に言ってしまえば、この酔っ払い運転のケース、そして無免許運転のケースでは、有責とする約款の改定にこぎつけることができた。初めは反対したメンバーも、保険金の支払いは最終的に被害者救済を目的とするという私たち安田火災の意見に賛成してくれたのである。

利害に囚われない委員会“仲間”の仕事ぶり
お固い担当官のなかに陸軍予科士官学校の同期生が!

こうして約10か月間、自動車保険約款の文言一つひとつを丹念に検証し、新たな文言を編み出していく作業と議論を重ねるために、私たち委員は毎日顔を合わせていった。すると、別々の会社の社員であるにもかかわらず、次第にお互いの社としての垣根が取り払われるようになり、遠慮なくものを言い合える仲になっていく。一つの文言改定の作業が時間的に厳しくなったときなどでも、「これは明日までには必ず仕上げよう!」と語気を強めても、「よし、わかった」と違和感なく返答をし合えるようになっていった。仕事を通して、“仲間”として打ち解けていくことができたのだ。

普段、損害保険会社同士が競争関係にあることは確かだが、お互いが公正に争い合うためのフィールドを整備していくためには、自社の目先の利害に囚われない姿勢が何よりも必要だった。そのうえで、約款という共通のルールについて真摯に問題意識をすり合わせながら、忌憚のない議論を闘わせることが大切なのだ。この委員会での経験は、私にとって、「ビジネスにおける公正さとは何か?」を考えるうえでも掛け替えのないものとなった。

こうした雰囲気のなかで改定された自動車保険の約款の大綱は、40年以上を経た今日でも使われ、実際の訴訟においても引用されることが多い。損保協会公認の『自動車保険約款の解説』は(これはいまでも通用している)、約款の全面改訂後に私たち委員会メンバーが心血を注いだ成果だ。

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この約款改定全体を、行政の立場から統括するのが銀行局保険部保険第二課である。

このセクションは、自動車保険だけでなく、損害保険全般の料率や事業方法など細部にわたって私たち損保業界を監督・指導する立場にある。私たち保険業界人にとって、普段は「泣く子も黙る大蔵省」のお歴々として近づきがたい存在だ。面談の際にも、例え担当外のことでも聞かれれば明解な返答は必須であり、もし曖昧な言葉でお茶を濁したりすれば、自分だけでなく自分の背後に控える会社全体の評価を下げてしまう恐れがある。どのような角度からの質問にも対応できるよう、下準備は欠かせなかった。銀行局保険第二課への出入りは緊張を強いられるのが常で、監督・指導される立場の人間としては、必要があって訪れるときでも敷居が高いと感じたものだ。

自動車保険の約款改訂の仕事が一段落したあとの年末、この銀行局保険第二課の担当課長補佐、係長を招いての忘年会を催したことがあった。主催は、約款改定の委員会メンバー、私を含めた損保4社の課長たちである。

ところが、仕事以外の改まった席が初めてだったせいもあるのか、参加者たちの表情がいくぶん固いのだ。約款改定内容を検討し合い、約1年間にわたって何度も顔を合わせてきたにもかかわらず、仕事の上での監督官庁と監督される側の業界人とは、そう簡単に心の垣根までを取り払われるものではないのかとさえ思えた。

しかしある瞬間から、みんなの表情が少しずつほぐれてきたのである。それは、保険第二課の課長補佐、Iさんの何気ない一言がきっかけだった。

「実は私ね、戦争中は軍隊の学校に行っていましてね」

Iさんのこの一言に、陸軍幼年学校と陸軍予科士官学校を経験した私が反応しないわけがない。

「軍隊の学校とは、どちらの?」と問う私。

「ええ、陸軍予科士官学校です」

「えっ、では何期生ですか?」と、興奮気味に再び問う私。

「61期生です」

Iさんのこの答えにはさすがにびっくりした。それに対して思わず私が反応する。

「私も61期です!」

今度は相手がびっくり。目を丸くしているIさんに、「米軍の爆撃があったときにはどちらに?」とか、「朝霞では何中隊に?」とか、懐かしさのあまり矢継ぎ早に質問を繰り出した。すると、Iさんは逐一答えてくれる。話に盛り上がった二人は、27年もの歳月を経て同期生に再会できた喜びで思わず固い握手を交わすほどだった。

そして、当事者以外にはわかるはずのない内輪話に弾むIさんと私は、すっかりその場の空気をさらってしまい、しばらく他社の委員会メンバーのことなど忘れてしまっていた。メンバーたちはこの間、談笑し合う陸士出身者二人の聞き役を強いられていたようだ。だが、そのあたりから、忘年会の空気が和やかになっていたことも確かだった。

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この忘年会後、一つのちょっとした副産物があった。会の帰り、同席していた課長の一人が私にこう言ってくれたのだ。

「いつも渋い顔をしているIさんが笑顔で話していたので、『これはいったいどうしたことだ?』と不思議に思っていたんですよ。おかげで担当官に対する気持ちのハードルがちょっと下がりました」

それ以来、仕事の場面でも、担当官に対する他の委員会メンバーたちの緊張の度合いも少し緩和されたように思えた。一方の担当官、Iさんはもちろん、その部下である係長の対応も丁寧かつ穏やかになった気がする。それぞれの関係がほぐれていったことは、私にとっても幸運なことだった。

約款全面改定の仕事については、もう一言付け加えておくべきことがある。

自動車保険を軌道に乗せるための土台を構築するべき重要な時期に、私が約款の全面改訂に専念できたのは、同業他社の優れた委員会メンバーに負うところも大きいが、一方で社内からのバックアップにも心強いものがあった。

各社が2人ずつ出すことになっている安田火災のもう1人の委員は、長期総合保険の約款作成経験のあるN君が引き受けてくれた。これは私にとって十人力を得た思いだった。実際、私が自信をもって重要な提言をする場面では、彼の経験と知識の支えによるところが大きかった。

さらに、自動車保険のエキスパートと言ってもいい2人の後輩、F君とH君が事務局として大役を果たしてくれたことも大きな助けとなった。事務的なバックヤードの取りまとめは、表立って約款の改定作業を進める以上の時間と労力が必要となるが、この2人の迅速・丁寧な仕事ぶりは見事なもので、他社の委員会メンバーからも称賛されるほどだった。

これらを振り返ると、やや我田引水的ではあるが、この約款の全面改訂作業は、安田火災がその屋台骨を支えて進められたと言っても過言ではないだろう。

私にとっての山口茂という人の大きさ
支えてくれた人たちとともにある成長へ

自動車保険の引受規制撤廃と約款の全面改訂という大きな難関を越えようとしていたこの時期、新米課長であった私を常にビジネスマインドの面から支えてくださったのは、二人の大先輩だった。言わずもがな、三好武夫社長と山口茂さんである。二人とも、私にとっては安田火災における父のような存在だが、三好社長が偉大なる“尊父”だとすれば、山口さんは文字通りの“育ての父”だった。

実は、約款改訂作業が始まる5か月ほど前の4月、山口さんは、大手町の松翁会病院において、三好社長に手を取られながらその生涯を閉じていた(享年67歳)。三好社長からうかがった話では、亡くなる直前まで、うわ言のようにつぶやいていたのが、「自動車保険」と「IBNR」という2つの言葉だったと言う。まさに「仕事の鬼」にふさわしい臨終の言葉だ。

だが、一瞬の間を置いて、私は思わずはっとさせられた。2つの言葉はともに、当時、私が新米課長として実際に悪戦苦闘していた仕事の中身に係っていたからだ。それは私に対する山口さんの最期のメッセージではなかったか。

入社以来の約18年間、私を一人の “保険の仕事人”に育ててくださった恩人が、例え偶然だとしても、臨終の床で私の仕事に直接関係する世界を思い描いていてくれたとしたら、そこには何かしらの強い縁を感じざるをえなかった。

「いいか、伊室よ、しっかりせい。安田火災の自動車保険は、お前が育てるんだぞ。わかったな!」

その日以来、すでに聞こえるはずのない山口さんの声が、ときとして私のなかで響き続けていた。

私にとっての安田火災は、“保険の仕事人”として鍛錬を積むための修行の場だった。それはしかし、入社以来ずっと山口さんによる厳しくも温かな指導や叱責があったればこその実感だったのだ。

仕事に対する山口さんの執念と厳格さは並大抵のレベルではなかったが、それに応える部下の成長を何よりも喜んでくれたし、ときには力強く背中を押してもくれた。

これはあとから聞いた話だが、私が初めて課長(東京営業第二部第四課長)になったときも、自動車業務部業務第一課長になったときも、実は私を推薦してくれたのは山口さんだったのだ。私が単に「目をかけられていた」ということではない。山口茂という人は、個人的な情に流されて仕事上の物事を決めるような、そんなヤワな思考の持ち主ではないからだ。

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唐突かもしれないが、山口さんのことを知ってもらうために、ここで少し時間をさかのぼる。昭和19(1944)年に安田火災は3つの会社が統合されて新設されたのだが、話はそれ以前のこと。

安田火災に統合されたのは東京火災、帝国海上、第一機罐という3社だったが、その1年前の昭和18年に、東京火災は3社の合併によって、帝国海上は2社の合併によって、それぞれ設立された損保会社だった。ちなみに、このような保険会社の急激な統合政策は、戦時経済に即応させるために主務官庁による半ば強制的な行政指導の結果だ。

そのなかで東京火災が吸収した1社、太平火災という会社にかつて山口さんは勤めていたのである。しかし、東京火災に吸収されたという合併以前の“力関係”も作用し、当時の古めかしい企業社会の慣習も手伝って、この太平火災の社員は東京火災の“傍流”としての不本意な境遇を余儀なくされていた。この慣習的な流れは、翌年の昭和19年、安田火災という新会社の設立後も社内的に改められることはなかったと聞く。

山口さんが「仕事の鬼」と化したのは、こうした吸収合併劇に根ざした“力関係”に甘んじることを良しとしなかったからだ。“傍流”社員として社内での昇進の道は閉ざされているとしても、仕事の実質においては社内の誰をも凌駕する「保険のプロ=“仕事人”」たろうとしたのだった。事実、仕事に対する強い熱意と鋭敏なビジネス勘、これに人一倍旺盛な探究心を加えた優れた能力の持ち主だったから、新生の安田火災内でも一目置かれた存在として頭角を表していく。

しかし、安田内の“傍流”としての不本意な境遇は戦後もずっと続いていた。

ところが、東京火災からの“本流”の側に山口さんの卓抜した仕事ぶりに着目した人間が何人かいた。そのなかでも、人間の能力と成熟度に対する慧眼をもっていた一人が、のちに社長となる三好武夫という人物だったのである。

この2人の安田火災における出会いは、双方にとって運命的なものと言っていい。戦前の東京火災時代に入社し、社内の“本流”を行く三好武夫という人にとっては、山口さんは仕事上でトップレベルの“実”を見きわめ、それを実行するための得がたい協力者となった。一方の山口さんにとっての三好氏は、自分が見きわめた仕事上の“実”を最大限に評価し、その価値の意味と効果を社内的に拡散してくれる強力な媒介者となったのだ。

その意味で、この両人は、まさに真の盟友だった。山口さんは、例え社内での“傍流”を余儀なくされていようとも、三好武夫という盟友とのタッグによって、仕事の実質面では最上級の境地を得ることができたのだった。

さすがに会社としても、現役退職直前の3年間(昭和36〜39年)は、誰もが「仕事の鬼」と評する山口さんを取締役に昇進させることにしたが、これが“傍流”の人に対する精一杯の遇し方だった。昭和38年に三好社長が誕生して、その翌年に定年退職した山口さんは、亡くなるまでのほぼ7年間を顧問という立場から三好社長のアドバイザー役を担った。むしろ、三好社長が手放したくなかったのかもしれない。

私が山口さんから受けた影響は計り知れないが、仕事上のマインドという視点から引き継いだ最大のポイントを一つ挙げるとしたら何か? それは、山口さんが社内の地位にこだわることなく、自分の仕事の中身を光らせることに邁進したという一点に絞られる。

それを自分のなかに実感として見出したのは、昭和44(1969)年度の決算で自動車保険が40億円の赤字を出した翌年、自動車業務部業務第一課長の辞令を受けたときのことだった。

私はこう思ったのだ。

「安田火災のような企業でも、これほどの大赤字が続いてしまえば、つぶれてしまうことだってありうる。もしそうなれば、社員も露頭に迷うことがないとは言い切れない。課長になって部下を抱えるということは、そうならないようにする責任を引き受けることかもしれない」

その後、この考えは、自動車保険業務担当の課長として重責(私には実際にそう感じられた)を務めていくなかで、全社員とその家族の生命を預かっているという認識となっていった。この考えは、以前に記した「自分の欲は、競争に勝ち抜くとは別のところにあるんだな」という自覚と符合していく。

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この私の信念のようなものは、自分の資質や拙い努力以上に、尊敬する上司や優れた後輩や部下たちに恵まれからこそ生まれてきたのだと思う。仕事を誠実に全うしようとする人間に囲まれると、自分の「欲」の核心は、単に人を出し抜くという意味の競争とは別の次元に向かい、周囲の人たちとともに成長し、ともに成熟していきたいと思う方向に染まっていくものなのである。