【第3章】「成熟」へのステージ
過酷な時を生きる 昭和57(1982)年〜昭和61(1986)年/54歳〜58歳
「針の筵」の上の1年間
捨てる神あれば、拾う神あり
自分の仕事と関係ありそうな世の中の出来事は、ずいぶん昔のことでもよく覚えているものだ。保険マンは、自分の取引先の動向とか、世の中ではあまり歓迎されない事故や災害に係る出来事とか、だいたいこの2つの分野についてはまず忘れることはない。
私が東京に帰還した昭和57(1982)年の7月は、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併してトヨタ自動車が発足した時期だった。これは、私が自動者保険を専門としている以上、名古屋からの引っ越しでいくら慌ただしくても、覚えていてしかるべきだろう。
もっとも、ディーラー代理店としてのトヨタへの参入は、当時、T海上にかなりの差を付けられていたから、これを何とかしたいという強い気持ちが、トヨタの「工-販」合併劇をより鮮明に記憶させる要因になっていたのかもしれない。
もう一つ覚えているのは、7月の後半(正確には23日)に九州地方を集中豪雨が襲い、長崎市とその近郊で大水害が起きたことだ。中島川に架かる有名な眼鏡橋が半壊するほどの被害が、かつて(昭和49年)の静岡の七夕豪雨を思い出させた。水害とか集中豪雨とかが耳に入ってくると、保険マンとしては、あの七夕豪雨の際に、自動車保険の免責事項をめぐって、「集中豪雨か洪水か」という論点でT海上やN火災の部長たちと大激論を交わした記憶が重なって思い出される(第2章 第2部参照)。 そして私は、自分の仕事と係わりのある2つの出来事の記憶が鮮明に残るその夏、名古屋から東京へと帰還した。
「取締役役員室付き」というのが、私が東京本社に戻ったときの肩書である。 本社勤務の取締以上の専任役員に与えられるのが役員室だが、私には専任のポストが与えられているわけではないので、「付き」と言っても、自分の部屋はない。実際に私が居場所として与えられたのは、自動車開発第一部と第二部が同居する大部屋の一角だった。そこに私専用のデスクが1つ置かれている。取締役としてはきわめて“珍しい処遇”と言えるだろう。私はよほど経営トップとその周辺から煙たがられていたらしい。
漢字が読めなくなっているはずの三好武夫会長が人事異動の原案リストをほぼ全て書き換えて戻したとき、戻された側のM新社長は相当に動揺したと聞いている。自分の作った人事案が完全に否定されたのだから、三好会長を漢字が読めないと決めつけて侮ってなどいられないと思ったようだ。せっかく就いた自分の地位すら危うくなるのではないかという疑心暗鬼は、三好会長に対してだけでなく、次第にG副社長にも向けられるようになっていったと聞く。
まぁ、この際、そんなことはどうでもよろしい(笑)。
しかし、この大部屋での1年は、正直なところ、「針の筵」の上にいるような心地だった。
自動車開発第二部のK部長は、最初に私がこのデスクに座るなり、「干された奴が来たぞ」という視線を向けてきた。私より入社が1年あとのその部長は、大した用事でもないのに、ときどき気まぐれのように、「おーい、伊室くーん」と、回りに聞こえよがしに私を呼びつけた。部長がこの調子で私を見下すような態度を取るので、その部下たちの私に対する態度もどこかよそよそしいものになる。
あるいはこんなこともあった。
5年間の名古屋支店勤務の間、東京勤務時代にお世話になっていた代理店はじめ取引先に、東京復帰の挨拶に伺う必要がある。これは部長以上の中間管理職が異動に伴って行う通常業務の一つである。その際、「ご無沙汰をしておりましたが、今回戻って参りました。改めまして、今後ともよろしくお願いいたします」という言葉だけではなく、前の勤務地の土地柄を表すような(私の場合なら名古屋らしさのある)手土産の一つも持参するのが慣例である。その手土産の代金は、通常は交際費という名目で経費として認められている。
ところがこの手土産の代金をめぐって、自動車保険担当の常務から横やりがあった。「専任のない君の経費は処理すべき所属部署がないのだから、理屈に合わない」と言って、突き返されたのだ。明らかに私は“シニタイ”扱いだったのである。
この常務は、私が自動車業務部の業務第一課長のときの部長だった人だ。その当時は私と息が合っていたし、お互いうまくやっていたという記憶ばかりが残っていた。しかし、こちら側の立場が変わると、相手の態度が変化するのも世の中にはありがちなことかもしれない。かつては信頼していた上司だけに、少し残念な思いにかられた。
一部ではあるだろうが、本社内部の空気が、自分が不在だったほんの5年間で、これほどに荒んでしまっていたのかと、気持ちがやや沈んだことを覚えている。
しかし、「捨てる神あれば、拾う神あり」とはよく言ったものだ。
その数日後、「ずいぶん屈辱的だと思うんだが」と、昼食時にそばをすすりながら自動車開発一部のY部長に何気なくこの経費処理の話を向けた。彼は私の2年後輩である。
すると、Y部長はきっぱりとこう言ってくれたのだ。
「伊室さん、その経費、私が処理します。これからも何かあったら、僕に言ってください」
うれしかったし、ありがたかった。表の道理は道理として通しながら、裏のリアリティを自分の度量で柔軟に受け止められる、そんな成熟した人間が目の前にいた。こういう懐の深い人間がいる限り、会社もまだ大丈夫だなと私には思えた。
そして、沈みがちな気持ちも、彼のような人間と話すと、上向きになっていくことに気づかされた。むしろ、本当にありがたかったのは、その瞬間、彼が私の気持ちを支えてくれたということの方だった。
このY部長は、部長車を「自由に使ってください」と言って便宜を計ってくれたこともある。取締役以上には支給されるはずの社用車が私にはなかったからだ。
このことをきっかけに、彼との気持ちのよい付き合いが深まっていった。そして、お互いに歳を重ねたいまでも、友人としての親交が続いている。
新たな定年制が提案された取締役会
私が賛成した第1の理由
M社長、G副社長という時代は、実はそれほど長くは続かなかった。
三好武夫社長の時代が17年半だったのは確かに長すぎたが、M社長の在位は2年半と歴代社長のなかでは一番短い。
これには明確な制度上の理由があった。いや、「理由があった」というのは正確ではない。M社長が社長を退任せざるをえない制度が、その退任の直前につくられたのだ。役員と社長の定年制である。これは、ある日の取締役会でG副社長から突然提案され、即座に重要議題とされたものだ。
中身はしごく簡単である。常務は60歳、専務は62歳、副社長は64歳、そして社長は66歳。それぞれの年齢を定年とするという制度だ。
ちなみに、このとき、会長の定年は決めていなかったが、その後、「会長は原則として1期を2年とし、2期をもって限度とする」という但し書きが内規として添えられた。
この提案が取締役会で可決されれば、その時点で定年に達している役員も社長も現職を自動的に退任しなければならない。
このとき、M社長の年齢は66歳だった。現役社長の年齢が既にわかっていて、それがいまから取り決めようとしている社長の定年と同じだとすれば、提案者の真意がどういうところにあるか、大概の人間には想像がつくだろう。
社長時代の三好武夫会長が病を得てしまったことに乗じて会社の上層部の大異動が行われたわけだが、その頃までは蜜月だったM社長とG副社長の関係が、2年という短い時間に変化していたのである。この事態は、社内でも知られはじめていた。
事実を概説すれば、M社長がG副社長以外の別の常務(M社長の数少ない協力者)を片腕にしようとしたことがG副社長の耳に入り、次期社長は自分だと目論んでいたG副社長がM社長を外す作戦に踏み切ったということである。三越の岡田社長追放劇を思い描いたのだろうか。
要するに、G副社長からすれば、M社長という存在は自分が社長になるまでの“つなぎ”として位置づけていたにすぎなかったと言える。
たとえ一時的な地位にせよ、M社長に冠を授ける手助けをしたG副社長である。その自分を外そうとしたM社長が許せなかったのだろう。ゆくゆくは自分の番だと考えていたその時期が、自分の提案による定年制によって早められただけの話だ──。そんなG副社長の思惑は、取締役会の出席者であれば誰でも見透かしていた。
果たして、20人近い取締役会において数人の反対があっただけで、G副社長による定年制の提案は可決された。この定年制によってM社長は退任して代表権のない会長となり、社長にはG氏が昇格することになったのである。
もちろん、ヒラの取締役の私も、この取締役会の末席に座っていた。そして、定年制についての多数決を取るとき、私は賛成の側に挙手したのだった。
それには2つの理由がある。
まず第1の理由は、私には、M社長を支持できない明確な根拠があった。
それは遡ること14年ほど前(東京営業第二部第四課長だった頃)、例の早稲田大学の騒擾保険引き受けの際のことだ。私の直属の上司だった営業部長時代のM氏(つまりM社長)は、一旦は私の引き受け案にゴーサインを出しておきながら、他社からの苦言で当時の三好社長がその問題について調査し始めた途端、「これは課長の暴走だ」と言って自分の責任を逃れ、反論する私に「お前はまだ夢を見ている」と決めつけたのだ(第2章 第2部参照)。当然のことだが、それ以来、私はM氏を上司として信頼も尊敬もできなくなっていた。そして、M氏は私の顔を正面から見なくなった。当然かもしれない。気の毒に、私への後ろめたさをずっと抱え込んでいたと考えられる。
しかし、私は昔の出来事をいつまでも遺恨のある記憶として持ち歩くような人間ではない。そんなつまらないことを心に留め置くよりも、優秀で信頼できる上司や同僚や後輩たちとともに、自分が為すべき仕事を前向きに全うすることの方が、いかに有意義で愉快で、しかも自分の信念に叶っているか、そして多くを学ぶことができるか──。それまでの会社人生から言っても、こちらの優先順位の方がずっと高いのだ。
つまり私は、M社長に対しては、過去の出来事への単なる感情的な反発からではなく、どう見ても私がこれまで尊敬し、信頼してきた上司たちの経営者・人格的資質の基準から大きく外れていると判断していた。残念ながら、責任意識においては次元が違いすぎると言ってもいい。公正な目で見て、少なくとも、これからの安田火災のためになる人ではないというのが私の当時の判断だった。
これが、G副社長の社長定年制への賛意を示した第1の理由である。
三好会長から聞かされた常務昇格
人生の一つの分岐点となった瞬間
では第2の理由は何か? この話をする前に、大切な話を迂回させておきたい。
実はその定年制案が取締役会に提出される直前、つまり「針の筵」の上の1年間が終わりに近づこうとする頃、三好武夫会長からお呼びがかかった。いささか険しい日々を送っていた私は、久々のお声がかかりに、少しばかりではあるが心が踊った。
会長室に入るなり、「おー、来たか」と大きな声で私を呼び寄せてくれた。そして最初の言葉はこうだった。
「いろいろと聞いている。大部屋の取締役というのも大変なようだな」
私は少し冗談めかして応える。
「いえ、もうすぐ“年季”が開けますから。取締役“丁稚”として鍛えられていると思えば、どうってことはありません。それに、四面楚歌というわけでもなく、気持ちの通じる同僚や後輩もいるんです」
「ははは、そう強がらんでもいい。だが、そう言ってくれると、少しは安心できる。もう少しの辛抱だ」
そして、しばらくの沈黙のあと、急に単刀直入な言い方になった。
「お前を常務にしろとGに言っておいた。いいな、心得ておけ」
「はっ?」
私は思わず間の抜けたような返答をしてしまったが、会長は矢継ぎ早に問いかけてきた。
「で、お前、この先何をやりたいんだ?」
つまり、専門業務として何を担当する常務になりたいかということである。
この三好会長の質問は、実はその後の私の会社人生にとっての大きな分岐点になるものだった。しかし、私はそのことに気づいておらず、自分が普段思っていることを会長にぶつけることで精一杯だった。即座に、私はこう答えた。
「私は自動車保険の進展によって会社の成長に貢献できた人間ですし、そういう自負もあります。でも、この分野は発展途上で、やれることがまだまだあると思うんです。ここまでやってきたんですから、これからも自動車保険をやらせてください」
すると、三好会長は私の顔をまじまじと見てこう反応した。
「お前はほんとにそれでいいのか?」
そう言うと、少し間をおいて、会長は続けた。
「わかった。お前らしい選択だ。安田火災の自動車保険をもっと立派に育ててやってくれ」
そうおっしゃる三好会長は、私の目をじっと見て、何度か頷かれた。
そしてこの対話は、この間、数分で終わってしまった。
別の答え方があったかも知れないが、私は何ら後悔していなかった。
私はただ、自分の経験してきた専門性を磨き上げ、あるいは掘り下げるということのなかに自分にとっての本物の価値を見出す、保険マンとしての職人指向の方がずっと強い人間だったのだ。
その意味では、仕事のリアルな現場を常に最重要視していた大先輩、山口茂という人の資質により近いものがあったのかもしれない。もしそうだとすれば、私はこの先も山口さん流の仕事人生を歩むことで、きっと満たされていくだろうと考えていた。もちろん、山口さんほど厳しい自己抑制を利かせた「仕事の鬼」にはなれないだろうが…(第2章 第2部参照)。
新たな定年制に賛成した第2の理由
最大24部店を担当する常務取締役に
さて、なぜ取締役会でG副社長の社長定年制への賛意を示したたか? その第2の理由について、もうおわかりではないだろうか。
私は、この瞬間、三好会長から、「社内での余計な争いごとをせずに、この会社を生き抜け」というミッションを授けられたのである。そして、会社を生き抜くための前提として、常務というポストを与えられたのだ。それは、G氏がトップの地位に就いた際には、三好会長とG氏による公認パスポートとして通用するものだった。そしてそれは、私自信が今後、経営トップとなるG氏の地位を脅かさない限りにおいて可能なことなのである(私にはそんなつもりは毛頭ないのだが…)。
つまり、三好会長は、既にG副社長を次のトップにするしかない事態が水面下で進められていることを見取っていた(会長の意には反していたが)。おそらくこの段階で、G副社長による社長定年制の提案の情報が会長の耳に入っていたものと思われる。
この三好会長との面談後、今度はG副社長から呼び出しがかかった。直接向き合って話すのは、あの豊川稲荷における積立ファミリー保険達成件数の誓約のとき以来だ(第2章 第2部参照)。
G副社長の話は単純なものだった。例の社長定年制案に「賛成か? 反対か?」の踏み絵をさせたのである。私ばかりではない。取締役以上の役員一人ひとりに、定年制案の可否を問う根回しをしていたのではないか。取締役会の前に、自分の地固めを完了させておく必要があったからだ。
私は、「わかりました。取締役会では賛成に挙手します」と返答した。この瞬間のG副社長の妙な笑顔をなぜかいまも覚えている。
その取締役会によって決まったのは、件の定年制のほか、それに伴うG社長就任と何人かの役員昇格人事だった。そのなかには私の常務昇格も含まれていた(実際の着任は昭和58年7月)。
また、三好武夫会長は、17年という長きにわたる社長在任中の功績を讃えられ、名誉会長というポストに就かれた。この名誉職の設置は、安田火災とその後の損保ジャパンの歴史を通じて、現在のところ唯一のものだ。
しかし、そこからの私には、さらに大変な日々が待ち受けていた。
主に自動車保険の全般を統括する常務取締役というポストが与えられた私だったが、実際に担当させられる業務の蓋を開けてみて驚いた。
自動車保険関連の部店はもとより、東京営業第二部、中国・北陸・東北10部店に計算管理部、内務部も加わり、多いときは24部店に達していた。
通例、取締役常務が担当するのはせいぜい5部店程度である。このあからさまな担当部店の数の格差を知った何人かの後輩や部下からは、「伊室さん、大丈夫ですか?」と心配してくれる声をもらったが、私の覚悟は決まっていた。
もちろん、常務取締役という立場では、実際の実務や手続き業務に手を染めるということはない。主に鳥瞰的な視点から業務の全体を統括するわけだが、それでも24という部店数を1人で担当するには、時間がいくらあっても足りない。当然のように、超人的な過密スケジュールをこなしていかなければならなかった。
自動車保険の営業に直接係る案件でなくても、本社の担当常務が足を運ばなければならない場合もある。例えば、ディーラー代理店の経営者の告別式に行くとか、法人の取引先の社長が取引停止だと激怒しているからなだめに行くとか、こういった予想外の出来事やトラブルの対応に相当な時間が取られる。当然のように、土日、休日なども仕事ですべて埋まってしまうのだった。
このような対応先が関東近郊ならまだ何とかこなせるが、私の統括エリアはほぼ本州全域と四国だから、予定通りに場所の移動をするのにも四苦八苦した。
例えば、青森の翌日に秋田に行かなければならないとき、青森から秋田に直行するのではなく、青森から飛行機で一旦羽田に戻り、羽田のホテルに一泊して、翌日の朝一番に秋田に飛んで行く方が時間の短縮になる。当時の交通事情からすると、そんな風に場所の移動の仕方を工夫しないと、とんでもなく時間をロスするということもずいぶん学習させられた。
しかし、このように本州中を行ったり来たりする泊まりの出張が月の半分もあると、果たして自分は本当に取締役常務なのかどうか、疑わしくなってくる。一人の営業マンでも、せいぜい1つの県内を走り回るというのが活動範囲の限度であるのに、通常の営業マンが動き回る何人分もの距離を移動しなければならない日々が続いたからだ。疲労は移動の距離に比例すると考えたりもした。
まだある。当時はバブル経済時代の前夜である。接待ゴルフが、会社同士の付き合い上の潤滑油であるかのように頻繁に活用された。常務以上になると、安田火災が法人会員になっているいくつかのカントリークラブを使うことができる。
忙殺されてヘトヘトになっていても、ゴルフ好きの性分は隠せないものだ。例えば、取引先の役員から、「いいお天気ですね」と声をかけられれば即座に「次の日曜日はいかがですか?」と反応するのがごく当たり前と考えていた。したがって、私の日程表からは休日の二文字は消えていた。
コミュニケーション・ツール『よどばし通信』誕生
超多忙が祟って50日の入院
常務として忙殺される日々も2年目に入ったとき、あまりにきりきり舞いしている自分と担当部店長たち、それに部店内のコミュニケーションが不足しないかと不安に思えた。出張の多い私は、24部店の社員の顔さえ覚えきれず、部店長たちともじっくり話す機会すら捻出できない状態だったからだ。
そこで、そのコミュニケーション不足を補うため、『よどばし通信』と称する文書を各部店長宛に発送することにした。A4のコピー用紙の裏表を使い、1000〜1500字程度のエッセイ風の記事を5〜6本ほど載せた月刊である。『よどばし通信』(以下『通信』)の名前は、新本社ビルのある西新宿区界隈の古い地名、「淀橋」から拝借した。
昭和60年5月1日発行の創刊号に、「はじめに」と称してこの通信の趣旨が記されている。少し引用してみよう。
「(前略)…これは月に一回私から皆さんに送るメッセージであり、とくに通常の決定通達の表面に現れないニュアンスや、トップの考え方などについて、これは知っておいてもらった方がよいのではないかというところをお報せしたいと思います。そして私自身が読んだ書物や聞いた話の中から参考になるところを選んでお送りしたいと思うのです。むろん一方通行は私の望むところではありませんので、批判、反論などご遠慮なくお寄せいただきたいと思いますし、またそれをめぐるやりとりの過程を通じて、コミュニケーションが深まることだってあると考えるのです。」
この文章では、『通信』の内容がどんなものになるかということと、私と部店社員たちとのコミュニケーション・ツールであることを謳っている。最初はどの程度の効果があるのか自分でも想像できていなかったが、こういうものは継続が肝腎だと思い、とにかく続けてみることにした。
「そんな通信に手間をかけていると、もっと忙しくなってしまうよ」と知り合いから言われたこともあるが、それは全く違う。その手間を惜しんで、部店長や部店社員たちとのコミュニケーションが不足すれば、もっとまずい事態になる。上司と部下、そして社員間におけるコミュニケーションの活性化が、どれほど業務の潤滑化につながるか、名古屋支店長時代の実感的な学習成果をここにきて手放すわけにはいかない。
月刊とは言え、少しでも時間を見つけて1週間に1本ずつぐらいのペースで記事を書いていけば、実はそれほど手間のかかることではない。やれると思ったことは即実行に移すべきなのだ。これは、いまも変わらず私の行動原理の一つになっている。
しかし、ファクシミリは一般に普及していたものの、いまのように電子メールなどによる通信手段がない時代だ(パソコン通信がやっと使われるようになっていた)。東京本社の担当常務からの業務通達や本社の意向、まして私個人の仕事に対する考え方を、本州のあちこちに散らばっている24もの各部店に伝えるだけでも、いま以上の労力を要する。逆に、各部店の情報を常務一人が吸い上げるという仕事は、足しげくそれぞれの部店に通うことでもなければ、まず不可能である。
本来は、それほど多くの担当部店が一人の常務に集中していること自体に問題があるのだが、それを改善する権限をもった上層部が手を差し伸べてくれる気配はない。となれば、「この会社を生き抜く」というミッションがここでも私を突き動かすことになる。
ところが、『通信』の第3号を出した直後(昭和60年7月)のある日、突然、体中の力が抜けるような感覚に襲われ、歩くのがやっとという状態になっていた。「これはおかしい」と思い、検査のために病院に赴くと、医者から即座に「緊急入院すべし」と宣告されてしまったのだ。
日頃の過労がピークに達していたとき、一過性の脳虚血症を起こしていたのである。幸いにも24時間以内に詰まった血管に血液が流れてくれたので後遺症は残らなかったが、これによって50日間ほどの入院を余儀なくされた。
血液をサラサラにする投薬と安静による治療の日々を送ることになるのだが、病院のベッドでくる日もくる日もじっとしていなければならないのは苦痛である。そこで、看護婦さんの目を盗んでは、『通信』の執筆と編集だけまめにやることにした。これには家族からも呆れられた覚えがある。
この脳虚血症治療のための入院から帰還したのは8月だった。社員が交代で夏休みを取る間に、仕事に復帰する準備を進め、50日間の遅れを取り戻そうと、仕事のピッチを急激に上げていった。そして、以前と同じようにエンジン全開という状態にもっていこうとした日、きつねうどんで胸がつかえる急性肝障害を起こし、再び2か月間の入院治療を余儀なくされた。
前回の入院で体の静養はできたと思っていたが、なぜ肝障害を起こしてしまったか? 主治医のK先生は率直に、「薬が合っていませんでした。ピリン系の薬が障害の原因です」と説明してくれた。初めは腹が立ったが、このK先生の率直さに、かえって尊敬の念を深めるようになった。
今度は2か月程度の入院が必要と聞かされ、一瞬だけ気持ちが沈んだが、これも、私を取締役にしてくださる前に三好社長(当時)がおっしゃっていた、“運”の為せる技かと思い直し、この際、今度こそじっくりと静養することに覚悟を決めた。この“運”が幸運となるか不運となるのかは、この入院生活のあとでわかってくることである。こういうときは、じたばたしても仕様がないのである。
病院という場所に流れている時間には、入院患者をとことん退屈させる特別な効能がある。これは恐ろしく残酷で、治療と安静、少しのリハビリという決められた日課以外では、ただただ“空白”という意味の時間が少しずつ患者の心を蝕んでいくのだ。
しかも今度は2か月もある。じたばたしても仕方がないが、じっとしていているのも癪に障る。
私の場合、投薬変更の効果は2週間と少しで現れてきたため、それ以後、まだ45日以上も残された日々をどのように過ごすべきか思案してしまった。病室や談話室にはテレビもあったが、テレビは適度な時間を超過して見てしまうと、どうも脳の活動が低下するような気がするので、ニュース以外はあまり見ないことにしていた。
そうは言っても、結局、一人でできることは読書か新聞を読むことのほかにないというのが結論だった。
そこで、「この際、時間の許す限り新聞や書籍を読んでおけば、まだ第6号しか発行していない『よどばし通信』(以下『通信』)のネタの仕込みにもなるだろう」と思い、談話室で何紙もの新聞をすみからすみまで読み、家族に頼んで買ってきてもらった本や雑誌を何冊も読んだ。
そのうえで、『通信』の記事になりそうなエピソードを整理してはメモを作り、「次号にはこれ、次々号にはこれだな」といった風に、編集プランを考えているのが楽しかった。そんな読書と企画作業を繰り返しているうちに、退屈なはずの時間の隙間はどんどん埋まっていく。そして、2か月という日々は意外とあっけなく過ぎていったのである。
人間、いかなる状況下でも、自分の為すべきことを自分から創りだして実行するということがいかに大事か、この年の2回目の入院生活で実感することができた。もっとも、家族の見立て(妻と子どもたちの共通見解)によれば、単に「じっとしていられないオジサン」にすぎないということらしい(この傾向は、いまも続いているかもしれない)。
そうこうしているうちに、2か月間の入院が終了する。そしてまた、本州と四国の北から南まで24部店を統括する常務取締役に戦線復帰したのである。
ただし、今度の職場復帰では、急にアクセルを踏み込まないように心がけた。度重なる入院経験で、さすがに健康であることのありがたさを実感的に学んだからだ。
入社1年目の昭和29年に結核にかかり、1年半の療養生活を送ったことがあったが、それ以来、文字通りの企業戦士を貫く間に、自分はもはや病気とは無縁であるとずっと過信してきたように思う。もちろん、年齢のせいもあるだろうが(既に57歳になっていた)、ここにきてそこそこの病気を立て続けに患ってしまい、これまで粗末に扱ってきた自分の体にようやく詫びを入れる気持ちになったというわけである。
それに、体を壊してしまったのでは、「この会社を生き抜く」という三好会長からのミッションも達成できない。ここからの私には、仕事のやり方と自分の健康との勘案が大事だと改めて意識した。
そのように自分を省みながら仕事に復帰してみると、2度の入院以前には、いかに肩に力が入っていたかということに気づく。もちろん、24部店の統括担当という無体な仕事配分を馬鹿正直に受けてしまっていること自体にも問題があるにせよ、自分の仕事のやり方、進め方にはやはり余分な“力み”があったのだと思う。
忙しさは以前とそれほど変わらないのに、この“力み”を取り除く、つまり脱力しながら仕事をしていくと、体も2度の入院前のようには疲れないし、気持ちも前向きになっていくのだ。
ではその“力み”は、具体的にどんなことによって取り除くことができるのか?
それは、一つの業務における第一の目的を、最終的な結果や成果にばかり求めるのではなく、最終的な成果の手前にある相手とのコミュニケーションそのものに設定することによって可能になる。どういうことか?
自動車保険を統括する常務取締役の仕事で最も多いのは、何らかの理由で安田火災に不満をつのらせ怒っている得意先や代理店をなだめに行くことだ。言わば“火消し”である。
例えば、怒り心頭に達した代理店責任者から「取引停止だ」と宣告された営業マンが、その上司である支店長に泣きつき、その支店長でも収まらないときには、さらに本社の本店営業部(かつて私が部長を務めた部署だ)を経由して私のところに情報が入ることになっている。そこからが私の出番である。
このようなクレーム対応において重要なのは、何よりも保険マンとしてのコミュニケーションのスキルである。
損保の営業マンが修得する交渉・会話スキルのなかでも、クレームに対処するためのスキルには独特のものがあり、そこには人間の行動心理のメカニズムが組み込まれている。ある程度の訓練を積んだあと、このスキルに基づくコミュニケーション方法を営業現場で実践していくと、特にクレーム対応の場合はかなり高い確率で問題解決にまでもっていくことが可能だ。
幸いなことに、私はこのクレーム対応の会話が割りに得意な方である。キャラクターの問題もあるだろうが、自分ではあまりストレスを感じることなく、取引先のクレームに対処することができる。
多くの場合、取締役以上の人間が出向かなければならない取引先との関係では、「取引停止」を撤回させることがこちら側の最終的な目的であり成果であるが、その最終的な着地点に行く手前にある相手とのコミュニケーションに集中することができれば、十中八九、その目的は達せられる。
別の言い方をすれば、クレーム対応におけるコミュケーションそのものを仕事の第一の目的に設定すれば、本来の最終目的であるクレーム問題解決という結果はほぼ自動的に得られるものなのである。
なぜなら、このコミュニケーションは、双方の接点に見出される共通の目的(着地点)への道筋を培うために行われるからだ。
もちろん、失敗がまったくないとは言い切れないが、このクレーム問題の解決に至るプロセスについては場数を踏んできたベテランの営業マンになら、経験的に言えることだ。
また、このクレーム対応のコミュニケーションにおいては、相手の言い分を充分に聞き入れ、承認するだけの気持ちの余裕、懐の深さが欠かせない。そのためには、肩の力を抜き、力まずに自然体で相手のいうことを傾聴するという姿勢がよい効果をもたらすのだ。
このような柔軟な姿勢と訓練されたコミュニケーション・スキルがあれば、相手の言い分のなかに必ずある自分との接点を見出すことによって、最終的な問題解決(例えば取引停止の撤回)にもっていくことができる。
私は、2度の入院後、これまで重ねてきた営業実践の経験をもう一度振り返ることによって、このクレーム対応の大切な基本形を改めて自分の重要なスキルとして取り戻すことにした。するとあるときから、それまでの余分な“力み”が抜けていたのである。
“火消し常務”高知で登板
そのコミュニケーション・スキルの腕前
このクレーム対応のエピソードにぴったりの出来事が、安田火災高知支店と地元の某大手ディーラーとの間で起こった。
ある日、安田火災高知支店長から本店営業部の部長に、「取引停止」の通告を受けたという連絡が入ってきたのだ。聞けば、地元の有力ディーラーであるN社の社長が、たいそう怒っているという。そこで、事情をもう少し詳しく知ろうと、私は高知支店長と直に電話で話すことにした。
「取引停止の理由は何だとおっしゃっているんですか?」
「それが、私の挨拶の仕方がなっていないということなんですよ」
「それだけ?」
「ええ、その一点張りなんです」
これは、以前にも書いたことだが(第2章 第2部)、まさに「取引停止」の典型的な「理由」である。
高知支店長によれば、その後何度も足を運んだが、この社長は会ってもくれなくなったと言う。もはやにっちもさっちも行かなくなったと、私のところに最終的な救済を求めてきたのである。
それまで順当に取引を継続していただいた代理店が、突然「取引停止」となれば、それはそれなりの重大事であって、当然、これを元に戻すということは、会社にとっては優先順位の上位に位置づけられる。そこで、まさに絵に描いたような“火消し常務”の登場ということになる。
さて、ここから先は、「どこかで読んだことがあるかな?」と思っても、そのまま読み進めていただきたい。確かに私が「以前に書いたこと」と似ている内容だが、登場人物と場所が違う。
以前の出来事は、横浜支店担当の某ディーラーによる「取引停止」宣告に対して、当時の三好武夫社長と本店営業第六部長の私が対応した事例だ(第2章 第2部参照)。おおよその経緯は似ているが、今回は敢えて解説入りで述べることにしたので、事例の単なる重複ではない。
一応そのようにお断りして、先を進める。
私が会いに行った相手は高知の大手ディーラーの社長である。さすがに貫禄も威厳もある。初対面の私には、最初から怒りを向けてはこないが、怒らせたら怖そうなタイプだ。
私たち損保会社は、代理店によってユーザーへの保険販売をお願いしている身である。そのお得意様を怒らせたのだから、その怒りの理由はともかく、まずは謝罪するのが基本だ。
もちろん、謝罪すればそれだけで取引を復活させてくれるわけもない。まして、「取引停止を撤回ください」などと軽々しく口にしようものなら、相手の怒りの炎に油を注ぐことになりかねない。
そこでここからは、ある程度定型化した独特のトークを始める必要がある。保険マンとして長年の現場経験で身につけた成果を披露することになった。
まず、最初にこういう挨拶で機先を制する。
「今回の取引停止は残念ですが、やむをえません。これまでお世話になり、ありがとうございました」
これは要するに、こちら側が先方から言われた「取引停止」を一旦認めたということを宣言してしまうやり方である。言わば、儀礼的な関係のリセットである。仕切り直しと言ってもいい。
そうすると、いまここからはお互いが改まった関係に入るということが相手にも伝わる。そしてそれを追認するために、これまでのお礼を丁重に申し述べるわけだ。
こういう言い方をされると、相手の怒りも少しぐらいは鎮静してくるものだ。このときも、ディーラーの社長の顔つきが、いささか穏やかになってきたように見受けられた。
そして次に、いくらかは鎮静したであろう相手に、「取引中止」の理由が何であるかを率直に聞いてみる。この場合も、私はディーラー社長にこんな風な聞き方をした。
「ところで、取引停止の“本当の理由”を教えてくださいませんか? 改めてご本人の口から直接伺いたいと思いまして。それだけ伺えばすぐに帰りますから」
このとき、「なぜ取引中止にしたのですか?」というように「なぜ?」という問い方をしてはいけない。この「なぜ?」という問いの発し方は、相手が問い詰められているというネガティブな感情を引き起こしやすいからだ。せっかく落ち着いてきた相手を、責められるような気分にしてしまっては逆効果だ。
こういう場合の問いかけは、「どういう理由で?」とか、「何が問題で?」という客観的(第三者的)な視点で行うことが肝要だ。この聞き方だと、相手も客観的な視点で考えようという姿勢がつくりやすくなり、また、心理的な圧迫感を感じさせることが少ない。
最後の「それだけ伺えばすぐに帰りますから」という台詞は、「あまり長居するつもりはない」という意図をとりあえず伝えるためには効果的である。相手は「話を済ませて早く帰ってほしい」と思っているからだ。これは言わなくてもいいが、相手の心理状態によっては有効な言葉だ。
ただ、このような質問をしたからといって、相手が「取引中止」の客観的な理由を述べてくれないことも充分ありうる。実際、このディーラーの社長も、こう言ってきたのだ。
「お宅の支店長は、人としてのマナーができていないんだよ。挨拶一つまともにできやしない。ああいう人が私の会社に出入りしているだけで、こちらは不愉快なんだ」
社長は怒りとともに、自分では理由だと思っていることを語気強く口にした。実は、これはよい兆候だ。怒りは率直に吐き出してもらう方がいい。
しかし、彼の答えたことは客観的な理由とは言いがたい。そもそもディーラーの社長たる人物が、支店長の挨拶の仕方ごときで取引停止にするというのは、大人の理由としては薄弱であり、主観的すぎて理不尽である。人としてのマナーを他人に説く割には、はなはだ感情的で不合理な思考の持ち主かもしれない。
ここにこの相手の人柄の一部が現れていることにも注意しておく。あまり合理的なロジックで攻略しない方がいいタイプのようだ。
そこで、次のように話をつなげる。相手の言い分を聞いて素直にうなづくのである。
「そうだったんですね。挨拶ができていなかったんですね。それは申し訳ありませんでした。社員のマナー教育を徹底させることにします。ところで、理由はそれだけでしょうか?」
相手の言うことをそのまま素直に受け止めることは、こういう場合には最も大事なことだ。とにかく相手の言い分に丁寧にうなづき、承認すること。これによって、相手は多かれ少なかれ誰でもが持っている承認欲求を満たされ、こちら側に対して抱いている否定的な感情をある程度まで抑制できるようになる。
それと、もし会話中に改善できそうな自分サイドの問題を見出したら、「自分たちの課題として必ず解決する」と、すぐに考えられる改善策を述べる。客観的な問題点は合理的に解決できるものだし、こちら側は常に問題の解決に前向きであるという姿勢を示すことができる。
この場合は、「社員のマナー教育を徹底させる」ことで、「社員に二度と挨拶上の失敗をしないようにする」という前向きな決意を相手に提示できたわけだ。
そのうえで、「理由はそれだけでしょうか?」と、他に理由があるかどうか、相手の思考を促す質問をすることが重要だ。この促しの質問は、相手自身が自分の中に「もう一つの本当の理由=他の理由」を見出そうと考えるきっかけになるからだ。
特に最初の理由が感情的で主観的なものである場合、相手が考えるこの時間には意味がある。最初の答えの理不尽さに気づきはじめれば、より説得力のある「他の理由」を探そうと、一生懸命考えをめぐらすことになるはずだ。
ここでもし、明確な「他の理由」が述べられ、それが「支店長の挨拶の仕方」とは違う合理的な理由(こちら側の業務上の問題点など)であれば、「自分たちの課題として必ず解決する」と改めて約束する。これは、最初の理由が述べられたときの反応の仕方と同じだ。
また、「理由はそれだけでしょうか?」と回答を促してみても、あまり合理的でない答えや感情的な理由ばかりがさらに出てくるのであれば、それは簡単には言えない“何か”が相手の心にわだかまっている場合だ。この“わだかまり”は、文字通り簡単には言葉にできるものではない不合理な(あるいは感情的な)“何か”なので、実は「他に理由がない」のと同じ意味合いを持つ。
では、それ以上の理由が返ってこない、つまり「他に理由がない」とはどういう事態か?
このケースは、何か言い出しにくい社内事情(業績の低下など)とか個人的な背景(家庭の事情など)があるか、あるいは本当にそれ以上の理由がないか、およそこの2つのうちのどちらかである。
しかし、この場合、それ以上のツッコミは入れてはいけない。ここからは、相手側とこちら側が「共有できそうな接点」を何か見つける会話に入ることが肝要だ。
この段階にくると、相手も、こちら側のことを「少しは話しのわかるやつだな」程度の冷静な視点を多少は向けてくれるようになる。
実際、このときも、「わざわざ東京から来られたんですよね」と、改めて私の名刺を眺めながら、こちらを労うような反応を見せるようになっていた。最初に顔を合わせたときとは大違いだ。
これは「もう少しぐらいなら話を聞いてやってもいいぞ」というサインかもしれない。私にはそう思えた。
共通の「解」を導き出すための道筋へ
コミュニケーション自体が仕事の目的
ここまでくると、「どこかで読んだような話だ」と思われた人もいるだろう。確かにこれは、かつて横浜支店が神奈川県内の某自動車ディーラーから「取引停止」を宣告された際、三好武夫社長(当時)が使ったのとほぼ同じタイプの会話である(今回のケースは少し長いが…)。
いま高知支店のケースに即して述べたことは、その同じタイプの会話のそれぞれにはどのような意図や意味合いがあるかということを、時系列に従って解説したものだ。
もちろん、普段はこんな風に分析的に会話を進めたりはしない。予めこういった会話のバリエーションを想定した訓練を受けるとともに、やはり交渉の場数をこなすことが必要だ。それが身につくと、相手との会話の現場で脳が勝手に判断して、臨機応変なコミュニケーションが展開できるようになる。
かつての横浜支店とディーラーとのトラブルでは、三好社長が先方に赴いた後に、当時本店営業第六部長だった私が、一度停止された取引を復活させるためにそのディーラーとどのように交渉したかについて記した。
そのとき大事だったのは、繰り返すと、「自分と相手、双方の目的を達成するための『解』はいったいどこにあるのか? その『解』を導き出すための道筋を発見することが、私に与えられた使命だった」ということだ。
この高知でのアプローチも、ここからは同じだ。すなわち、私とディーラー社長との間に共通の「解」を導き出すための道筋を発見すること──。
そして、ここまでのコミュニケーションによって培われたものは、その筋道をつけるための土台となる新たな関係である。ようやくお互いの共通の「解」を見出せる段階に入ったと言っていい。
実はこの高知での一件でも、以前の横浜支店での会話とほぼ同じことがこの後に再現された。
要は、ディーラーの自動車を50台、高知支店の営業エリアで売るので、それでこれまでの経緯をリセットして、「取引停止」を撤回してくれないか、という提案を持ちかけたのである。横浜支店の時と車の台数まで同じだ。
景気の波によっては自動車の売れ行きが低迷することもあるが、そんなときには総じてディーラー側の機嫌が悪くなる。この高知での出来事は、日米貿易摩擦のあおりを受けて、輸出車生産規制の行政指導があった直後のことでもあり、まさに車が売れていない時期だった。
そういうときには、どこのディーラー代理店でも、営業マンに対してだけでなく、支店長クラスにまで八つ当たりするなどということがたまに起こる。そこでは、「いつも保険の販売に協力しているのに、どうして車の販売には協力しないのか?」といった心理が、ディーラー側の本音として吹き出してしまっているのだ。
私が足を運んだディーラーの社長もまさに同じ心理状態だった。合理的・客観的な「取引停止」の理由など、実ははなっからないのである。
しかし、ここまでお互いがコミュニケーションを尽くしてきたのだから、共通の「解」を見い出せる土台の上に私サイドから新たな提案をすることが可能になったはずだ。
その提案は、相手の本来の目的に叶ったものでなければならない。それは、当たり前といえば当たり前のことだが、「自動車を売る」ということである。
一方の私サイドの本来の目的は何か? これも既に自明だった。つまり、「取引停止の撤回」であり、これまで通りの「取引の継続」である。その双方の本来の目的の交差するところに、共通の「解」が成立する。そのポイントが見えた私は、すかさず発言した。
「社長、突然の取引停止というのは、損保会社にとっては実刑判決みたいなものです。でも実際の判決には執行猶予というのがありますよね。そこで、どうでしょう。6か月の執行猶予をください。その間に、おたくの車、50台、必ず買い手を見つけてきます。それが成就したら、また取り引きをお願いできますか?」
この言葉の後半も、以前の横浜支店の一件のときと同じである。ディーラー社長の顔が柔和になり始めた。そして、こう言うのである。
「ほー、50台ですか。そんなお願いができるんですか。それなら、私どもも考え直さないわけにはいきませんな」
このときの社長は、ソファーから身を乗り出し、最初の不機嫌そうな表情とは打って変わって、きわめて満足そうな笑顔に変わっていた。私の今回の役割も一つの大きな山を越えたことになる。
このような重大なクレーム対応におけるスキルは、海外からのテキストによって紹介されるものもあるが、私たちの先輩の経験則のなかからブラッシュアップされ、積み重ねられてきたものには高い実効性がある。実際の社員研修でも、その社員の仕事経験に応じたコミュニケーション・スキルの学習と訓練が暫時行われる。しかし、やはり研修などでそのスキルをある程度身につけたのちに、クレーム対応の場数を踏むことによって、自分の反応性を高め、的確に相手の心理に対応できるようになる。
私にとっては、保険マンとしての現場を経験するのとは別次元において、やはり三好武夫という人の軽妙で高いレベルのコミュニケーション・スキルに学ぶことは特別な意味があった。三好社長時代に折にふれてご一緒したとき、その傍らで彼の会話術をその立ち振舞を含めて盗むことに快感を覚えたほどだ。
とりわけ今回の高知でのようなクレーム対応の現場では、そのようなときに会得した会話のスキルを再現しているだけなのかもしれない。
いずれにせよ、常務取締役として超多忙、ほとんど“火消し役”としてさまざまな地域に頻繁に足を運んでいる時期の私は、「仕事の全てはコミュニケーション活動であると」いう考え方において一貫していた。これは、課長、部長を経て、取締役名古屋支店長という中間管理職の経験から深く学んだ成果の一つだと言っていい。
しかも、ありがたいことに、仕事の目的を相手とのコミュニケーションそれ自体に設定し、そのコミュニケーションの成立そのものが自分の着地点であると考えると、本来の最終目的は必ずあとから結果としてついてきてくれるのだ。その頃の私は、過酷な仕事に忙殺されながらも、むしろ生き生きと生きていた。
そのせいだろうか。この高知の出来事の頃から、毎月1回発行の『よどばし通信』の文字量が増えていった。本来は1本あたり1000〜1500字程度の記事だったものが、多いときで3000字を超える記事を苦もなく数本は掲載することもあった。それだけ物事を考える時間が捻出できるようになり、気持ちにゆとりが戻ってきたことがこのことからもわかる。
『通信』は結局、昭和63(1988)年3月の第34号(最終号)をもって幕を閉じることになるが、約3年間、われながらよくも続けられたものだと感心してしまう。多忙な仕事の合間に継続すること自体が、逆に、私の大きな心の支えにもなっていたという側面がある。
しかし一方で、その後のあることがきっかけとなって、自分の中に内省する時間を必要としていたこともまた確かだった。