【第3章】「成熟」へのステージ
さかのぼる眼、未来への交わり 昭和62(1987)年〜平成8(1996)年/59歳〜68歳
自社の起源に踏み入る
柳川清助との出会い
バブル経済の頃、海外出張に出かけていくことが多くなってから、なぜか私は、自分が長年携わってきた損保事業の根っこの部分を知りたい気持ちにかられた。安田火災の前身である東京火災という損保会社が、どのような歴史を経て起こされたものなのかに関心を持ったのである。
自分の心のなかの視界が広がると、かえって自分がよって立つ足元を見直したくなるものだろうか?
お恥ずかしい話だが、当時の私は、安田火災という社名から、その創業者は安田財閥を一代で築き上げた安田善次郎だろうとばかり思い込んでいた。確かに、東京火災第8代社長を務めた安田善次郎は(明治26年)、それ以前から東京火災を資金面で援助し、さらには日本の銀行や保険事業の発展に多大な貢献をした人物だが、東京火災の創業者ではない。
そこで調べてみると、明治中期、一人の青年が本邦初の民間火災保険会社の設立に悪戦苦闘していたという事実に突き当たった。
青年の名を柳川清助と言う。
この柳川清助が、明治20(1887)年7月に「有限責任東京火災保険会社」設立の発起人の一人として名を連ねるまで、あるいはそれ以後も、文字通りの山あり谷あり、ちょっとやそっとでは語れない曲折があったようだ。私が調べたところの概略を記そう。
そもそも日本における損害保険に関する用語が登場したのは、明治11(1878)年、東京医学校(東京帝国大学医学部の前身)のドイツ語とラテン語の教師、パウル・マイエット博士(ドイツ人)による「日本家屋保険論」という講演からだと言われる。その講演の内容が翻訳され、小冊子の形で広く読まれるようになると、とりわけ火災保険が国民生活の安定や産業保護などのためにいかに有用であるかが、官民双方で議論されるようになった。
ただ、明治の世も明けてまだ10年を超えたばかりの日本では、保険に対する理解の薄い政府内での反対論が根強く、国営の保険会社についてはその制度化の話は潰えてしまった。
しかし、当時の東京府知事、松田道之は、何とか帝都である東京府下だけでも官立による火災保険制度を確立したいと考え、さまざまに力を尽くした。ところが、道半ばにして43歳という若さで急逝(明治15年)。この計画立案のための調査書類は、しばらく松田家の蔵の中で眠ることになる。
ほぼ同じ頃、京橋墨町の醤油屋の息子、柳川清助(当時24歳)は、家業を妹の繁に譲って経済の勉強のために簿記学の塾に通っていた。そのときの教科書に欧米流の支払い項目として「火災保険料」という文言を発見した。
探究心旺盛な清助が「これはいったい何だろう?」と着目しないわけがなかった。そして勉学に励むうち、将来の日本においては必ず火災保険という事業が社会公衆の役に立つだろうと強く思ったという。
その思いが確信に変わったのは、明治16(1883)年、醤油問屋組合の上海視察に同行した清助が、当時の国際都市である上海で、イギリス人実業家が実際に火災保険事業を経営している光景を目の当たりにしたときのことだった。帰国した清助は、多方面にわたって調査していくうちに、かつて松田道之が自らの死によって中断せざるをえなかった火災保険に関する調査書類を発見する。たまたま松田の家の出入り商人だった清助は、道之の未亡人、波鶴との会話を手がかりに、松田家の庫底に埋もれていた書類と出会うことができたのだった。
そして明治18(1885)年からの1年間、茨城県土浦の旅館にこもり、日本初の「火災保険会社創立草案」を書き上げたのである。
ちなみに、松田道之が構想したのは国営・官立の「家屋保険法案」だが、柳川清助の「火災保険会社創立草案」はあくまでも民間・民営である。松田案を下敷きにしながら、その民営版を作成するには相当な修正努力が必要だったと思われる。
ところが、柳川清助の苦労はむしろここからだった。
彼は、東京火災保険会社の資本金を20万円としていたが、当時の会社設立は、発起人5人以上、資本金の4分の1以上の身元資産を要件としていた。そのため、発起人を募るのに東奔西走しなければならなかった。
火災保険という仕組み自体が当時の人間には理解しがたいものだったこともあり、「冒険事業は御免こうむる」と断られてばかりだったのだ。そこに、松田未亡人である波鶴の後押しもあって、なんとか5人の発起人をそろえることができた。もちろん、発起人総代は清助である。
しかし、明治20年6月に提出された認可申請書もすんなり通ったわけではない。手続書類に不備があったり、最初は親切だった創立委員(役所との橋渡し役)に裏切られたり、はたまた火災保険事業に対する否定的なデマを飛ばされたり…。とは言え、翌月7月23日、前月に提出した創立願書と定款等の不備を訂正・再提出し、東京府知事の認可の下、「有限責任東京火災保険会社」はようやく創立の運びとなったのである。
だが、その後も紆余曲折は続く。発起人5名のうち資産のあったのは清助の妹、柳川繁の1人だけだった。そこで資金調達のために赴いた役所との間でも右往左往し、それがなんとか可能となったものの、今度は開業準備のやり方をめぐって他の発起人や創立委員との間で意見の対立が起こり始める。
火災保険業は社会的信用を基盤とする事業だから、きちんとしたルールや仕組みを記した方法書を作って開業に備えるべきだというのが清助の考え方である。そのために彼は、慎重で確実な準備の積み上げを主張し、実際にそのような誠実な進め方をしようとする。
これに対し、多数派の他のメンバーたちは、拙速でもかまわないから、早く開業することが先決ではないかと主張する。清助とは全く正反対の考え方なのだ。
親方日の丸的な官吏主義を排し、独立自尊の考え方で高い経営効率をめざす清助。創立時の株式発行に関しても、まだ事業も始まっていないのに、放漫な株式申し込みの約定券発行で過分な資金調達をすべきでないと、あくまで清廉な会社のスタートを指向する清助。
このような清助のどの考え方や姿勢も、仲間であるはずの発起人たちにことごとく反対・否定されてしまう。さまざま手を尽くし、彼らと真摯に向き合おうとした清助だが、かえって折り合いが悪くなるばかり。結局、無念の思いを抱え、妹の繁とともに創立間もない東京火災から去ることになった。
そして明治21(1888)年10月1日、東京火災はいよいよ開業にこぎつけたが、そこに柳川清助の姿はなかった。そしてその後、東京火災創立の幻の功労者であるはずの彼の名は、歴史の表舞台から消えていくことになる。
時を超え、清助のご子孫を訪ねる
もう一人の変わり種、学究肌の社長がいた
柳川清助は晩年、会社創立の経過とそこで味わった苦心を詳細にわたって追想し、『本邦火災保険創立始末愚昧録』(通称『愚昧録』)という手記を残している。私はその『愚昧録』を読み進むうちに、安田火災(そして今日の損害保険ジャパン日本興亜)の最初の“井戸”を掘り当てたのはまぎれもなく柳川清助その人だったという確信を持つようになっていった。
さらに調べるうち、私は東京の谷中墓地の一角に彼の墓があることも知った。そこには、清助自ら題した「本邦火災保険鼻祖の墓」という墓碑が立っている。
あるとき私がその墓に参ったとき、清楚な花が手向けられていた。誰の供花だろうと不思議がっていたところ、後日、清助の妹である繁の孫、柳川親義さんとその奥さんによるものだということがわかったのだ。
そこで私は、親義さんご夫婦のお宅を探し出し、不躾を知りつつお訪ねする機会を得た。その際、『愚昧録』の記述を下敷きにしながら、親義さんの祖母、繁から伝え聞いたという清助の話を伺うことができたのである。
自分が関心を持った歴史上の人物について、そのご子孫から直接うかがうことが、これほどの知的興奮を覚えるものだとは思いもしなかった。まして、損害保険業という自分の生業に係わりの深い人物であればなおさらのことだ。
そこには、史料や記録を読み解くのとは全く違う、時間を超えたその人物とのつながりが得られたような心地よさがあった。
若き日に簿記学塾の教科書にたった一言、「火災保険料」という文言を見出し、日本での火災保険事業の必要性を確信するに至った柳川清助は、二度と実業の世界に踏み入ることはなかった。その後、独り勉学の道を歩み、さらには仏門に入る。そして大正10(1921)年、生涯独身を通した清助は伊豆の修善寺で逝去した。享年は63歳である。
私は思うのだが、命がけで東京火災の創業に尽力してきた柳川清助は、その誠実で清廉な考え方や振る舞いを見る限り、おそらくは今日でも立派に通用する、当時としては先駆的な経営感覚の持ち主だったのではないか。ただ、惜しいかな、時代環境と当時の人心は彼の先駆性を受け入れることができなかったのである。
私がこうして柳川清助の足跡から東京火災・安田火災の歴史をたどっていたところ、そのことが少しばかり社内に知れわたったらしい。あるときG社長の何気ない一言から、またしても私の好奇心をくすぐる驚くべき事実が飛び出してきたのだ。
取締役会などではそれとなく反論を述べては煙たがらせている私なので、普段はあまり親しげに近づいてくるG社長ではないのだが、このときはなぜか機嫌よく話しかけてきてくれた。
「いろいろ調べてるんだって。じゃあ君、これは知ってるか? 東京火災第8代社長、安田善五郎のあとに第9代社長に就任した長松篤棐という人は、日本の植物生理学の先達だったんだ」
これにはびっくり仰天。東京火災の歴史の一コマに、まさかそんな学究肌の人物が登場していたとは、夢にも思わなかった。それにしても、金融学や経済学ジャンルの研究者だったらまだわからないでもないが、全く畑違いの植物学の研究者が、なぜに東京火災の社長に就任することになったのか?
まず私の好奇心は、この長松篤棐の大いなる転身という一点に注がれることになった。
ちなみに、G社長の言葉に出てきた東京火災第8代社長の安田善五郎は、安田善次郎(初代)の二男である。
元治元(1864)年、長松篤棐は旧周防山口(長州)藩士の家に生まれた。父の幹は若き日に本草学の勉強のために京都に遊学したというから、篤棐の植物学への興味は、この父の遊学時代の知的探究と関わりがあるかもしれない。また長州藩士だった幹は、維新での功労によって、元老院議官や貴族院議員、さらには男爵に任ぜられている。
そんな父親を持つ篤棐は、明治15(1882)年の東京帝国大学理学科選科への入学が決まるまで、それ以前にせっかく入学した東京英語学校(旧制第一高等学校の前身)も病気のため退学。以後も学習院、京都府立中学、静岡県中学など複数の学校を遍歴する。当時としては少し凸凹して風変わりな青年期を過ごしていたようだ。
そして明治17(1884)年、今度は東京帝大選科を自主的に退学してしまう。本格的に植物学を学ぶためドイツ留学に向かい、ヴュルツブルグ大学に入学することにしたからだ。そこで、光合成の基礎的なメカニズムの発見者であるユリウス・フォン・ザックス教授に師事する。
このザックス先生、プロシアの鉄血宰相ビスマルクを尊敬していたとあって、生真面目・勤勉実直を絵に描いたような人だったらしく、自らは1日に14〜15時間は研究に費やし、学生にも休日でも研究の手を休めさせなかったというからすごい。学位論文審査では、針の穴を通るよりもむずかしい厳格さだと恐れられていた。
ところが、篤棐はその厳しい指導と審査の下で、明治19(1886)年、「葉緑体の作用について」という研究論文で哲学博士の学位を授与されている。当時一緒に留学していた日本人ではただ1人の審査通過者だというから、相当にハイレベルな内容の論文だったのだろう。
ドイツでの辛抱強い勉学と研究活動を終えた篤棐は、帰国後、23歳の若さで学習院大学教授に迎えられる。ただそれは、留学以前に東京帝大理学科選科を中退したという経歴の長松が、学閥の厚い壁に阻まれ、国立大学に奉職できなかった挙句のことだった。
学閥の嫡流に身を置けなかった篤棐は、その後の学習院の学制改革においても冷遇されることになる。植物学の専門家は要らないという理由で、在籍は認められながらも、非職(休職扱い)にされてしまうのである。
一方、明治21(1888)年に開業から創業間もない東京火災は、明治23年の横須賀大火によって多額の保険金を支払うことになり、空前の大損害を被っていた。さらに明治25年には足元の東京で神田大火が起こり、致命的な打撃を受ける。しかも、開業後4年ほど経っていても、株式の未払込金が溜まっており、まさに財政は火の車だった。
そこで幹部役員たちはさまざまな有力関係者との相談の末、当時の政財界人4名による東京火災再建への合意を成立させる。その4名のなかの中心人物こそが、すでにいくつかの銀行と保険会社の経営によって財をなしていた安田善次郎(初代)である。
その再建合意メンバー4名のなかに米穀取引所理事長を務める米倉一平という人物がいた。長松篤棐はこの米倉の娘婿に当たる。つまり篤棐は、岳父である米倉一平の推薦によって、東京火災の経営陣再編のために取締役として送り込まれたのだった。
学習院で冷遇されていた長松は、植物学の教科書編纂に従事してはいたものの、研究や講義などといった大学教員としての仕事を全うできる状態にはなかった。そこで本来の専門である植物学研究の前途に光明を見出せなくなった長松篤棐はここで発起し、まさに心機一転、新天地を東京火災に求めたのである。
「忘れられた植物学者」長松篤棐
輝く人たちの「人生の味付け」
この長松篤棐の転身の謎を知るについては、格好の参考文献がある。大阪市立大学名誉教授の増田芳雄氏がお書きになった『忘れられた植物学者─長松篤棐の華麗な転身』(中公新書)である。私がこうやって長松篤棐について記すことができるのも、増田さんのこのご著書に多くを負っている。
この本のなかには、篤棐が東京火災への転身を遂げた経緯ばかりではなく、実はもう一点、私が大変に興味をそそられた記述がある。
それは、篤棐が博士の学位を得た明治19(1886)年、当時ミュンヘン大学に留学中の森鷗外を訪ね、親しく交わっていたという部分だ。ミュンヘン近郊のシュタルンベルク湖などへ一緒に出かけたというから、何人かいたはずの留学仲間のなかでも、かなり気の合う友人としての交遊があったと推測される。帰国後もその友情は続き、両人は終生親交を結ぶことになる。
実はその鷗外、少しだけ東京火災と接点を持ったことがあった。
明治36年(1903)年4月、鷗外は、安田銀行(当時)をはじめとする安田系8社組織(東京火災もそのグループの1社だ)、八社会という例会に講演者として参加しているのだ。おそらく旧来の友人である長松篤棐の招聘によるものだろう。
鷗外の講演は「衛生談」と題するものだった。そこで鷗外は、ミュンヘン大学で師事した実験衛生学の祖ペッテンコーファ-と、細菌学の大家コッホという2人の天才科学者の名を挙げ、「ヨーロッパには一生を学問に委ね、学者が学者として立つことを許し、天才を育て上げる環境があるが、日本にはそのような環境が整っていない」という趣旨の発言をする。
そして次のように続けるのだ。
「(前略)どうも学者の学力は、此土地(日本)に長く落ちついて居る間には、遺憾ながら次第に下っていく傾が有るようであります。併したとえ学力は下って行っても、学者として立って行かれる人は結構であります。かく申す私などに至っては、学問界の失敗者であります。長松君とても、定めて御同感でありましょう。(中略)たとえ境遇の為めに、中途から研究の道をはずれたとしましても、嘗て長松君とシュタルンベルグの湖に遊んだ頃の記念をば、猶愉快な記念として心の中に蔵して居るのであります」(かっこ内は著者。漢字遣い等はママ)
鷗外の普段の口調はおおよそ穏やかだったと伝えられているが、この講演では舌鋒鋭く当時の日本の科学者たちの無能ぶりを批判し、日本の学界に対する不信感を表明している。さらには、「自分も親友篤棐も、同様に科学界には受け入れられていない。しかし、自分たちには真の学者であろうとすることの矜持がある」と、自分と篤棐に共通する心の叫びを述べてもいるのだ。
これは、科学界本流における敗者という鷗外の自己言及であると同時に、発起して東京火災の経営に飛び込んだ篤棐への、精一杯の友情を込めたエールの発信なのである。
私は、ドイツ留学時代の交友を振り返って述べている鷗外の最後の行を読んだとき、感動を禁じえなかった。なんと厚い、そして深い友誼であることか。
その後の長松篤棐は、男爵だった父・幹の後継として襲爵し、貴族院議員の務めを果たしながら、大正12(1923 )年に東京火災社長、昭和5(1930)年には、これも安田火災の前身の一つである帝国海上社長に就任し、職務を全うした。
そしてその一方で、昭和16(1941)年に亡くなるまで東京植物学会の会員だったという。かつて鷗外が思いを込めた「真の学者であろうとすることの矜持」は、篤棐の心中にあって生涯潰えることがなかったのである。
多くの困難を克服しつつ東京火災創業のきっかけを作った柳川清助、そして、植物生理学探究の道から見事な経営者へと転身を遂げた長松篤棐──。私は、この偉大な両人の曲折ある足跡をたどっていく最中に、ふと私の現在と過去を振り返ってみることが何度かあった。
人間には運不運があり、失敗や誤ち、あるいは誤解もある。しかしそれらは、「人生の味付け要素」のようなものであり、ちょっとした「塩気」が人間の生き方にも必要なのだ。
清廉な清助と学究肌の篤棐が生きた道のりには、まさにそういった「人生の味付け要素」がふんだんに使われており、見事な味わいを感じさせる。時として塩辛さが勝ってしまって、一瞬、目眩を覚えることもあったが…(笑)。
しかし、彼らについてのさまざまな記述に寄り添っていくと、そのときどきの人生の現場において、とにかく懸命に「自分に恥じない火を灯すこと」、その瞬間に生きること自体の幸福感が潜んでいると気づかされる。単純な意味で社会的地位を獲得するとか財を成すとかといった結果的な成功が、人間の真の目的ではないのだ。
長松篤棐は高い社会的地位を築いたではないかと反論する向きもあるだろうが、それは外から見えやすい現象だけを見ての拙速な判断である。
彼らはまさに自分を懸命に貫こうとする瞬間を何度も、しかも内容豊富に持っていた。そしてその人生の現場現場で、「自分に恥じない火を灯すこと」がもたらしてくれる幸福感を携えていた、そう思えて仕方がない。
そこで「私は?」と振り返る。歴史上に輝く人たちの足跡をたどることの効能はここにある。
一度は知的好奇心で分け入った世界だとしても、翻って自らを自省的・内省的に回顧するための糸口に至るという効能である(ゆめゆめ自慢のための回顧はしない方がいい。齢を重ねてからの自慢は卑しい自我の発露にすぎない)。
この自省のための回顧は、ある一定年齢の節目を迎えようとするとき、ふと知らず知らずのうちにやってしまうことかもしれない。この仕種を素通りしては、人生の損というものである。
歳を取るとはそういうことだと、この頃の私は気づきはじめていた。
「時事問題研究会」への参加
慣れ過ぎた世界を客観的な眼で見る
バブル期の私は、経営トップやその側近たちに対しては必ずしも従順な常務取締役ではなかった。と言って、特に反抗的な態度をとっていたわけではない。取締役会などで問題を感じたとき、穏やかかつ率直に質問をするというほどの姿勢を示していただけだ。ただその率直さが、何人かの人間を煙たがらせていた可能性がないとはいえない。
前にも書いたかもしれないが、経営上の問題では、本業である損害保険の地道な拡充をめざし、そのための代理店との丁寧な連携を大事にするというのが、私の基本的な考え方だった。
当時はバブルという言葉さえ熟れていなかったものの、経営トップとその側近たちが指向する、文字通り単に風船を膨らますかのごときキャッシュの取り込み金融機関のような事業スタイル(当時の私にはそのように見えた)には違和感があった。その感覚の根っこには、損害保険の持つ社会的価値と業務上の実務を重視する、保険マンとしてのモラル感覚と矜持がある。
当時の私の基本的な考え方は、きわめてシンプルで全うな損保会社の基本路線に重きを置くべきだというものだ。その考え方に則って事業の拡充拡大を図るとすれば、市場の本質的な損保ニーズをみきわめた新たな保険商品の開発こそが経営の本筋に位置づけられなければならない。
そんな風に、経営トップとその側近たち多数派の路線とは異なる考えを懐に持ち歩いている私に、普段、本心から心やすく、特段の意識もせずに話しかけてくる人間は社内でも少数だったかもしれない。
本当に気持ちのよい、真摯な語らいのできる間柄の部下や上司は、その少数派のなかにこそいた。彼らはかつての柳川清助のように、誠実な仕事のこなし方をする清廉な気質の人たちだ。
と、そんな言い方をしてしまえば、多数派の多くは真逆の仕事の仕方をし、真逆の気質をもっていたことになってしまうか(笑)。
バブル経済が頂点の頃のある日、秘書室のH君が役員室にいた私に近づいてきてこう言った。
「時事問題研究会という勉強会があるんですが、伊室さん、参加してみませんか?」
秘書役が勝手にそんなことを常務に勧める理由がない。彼の背後にいる人物が、秘書役の口を使って私に伝えてきたというわけだ。もちろんG社長の意向である。
柳川清助について調べているとき、G社長が一言声をかけてくれたことが長松篤棐のことを知るきっかけとなったわけだが、実はその頃から私に対する経営トップの接し方には変化を感じていた。
G社長は三好武夫会長(当時)に言われて私を常務にしたという経緯から、少なくとも三好会長(最終的に最高顧問)存命中は私を冷遇することはできなかった。それでも経営トップの立場からすれば、必ずしも全面的に自分の経営姿勢を支持しているわけではない私は目障りな存在だったかもしれない。
世間一般にありがちなことだが、どちらかと言えば自分に対してただ従順な人間を側近として周りに集めていたG社長は、本業重視・代理店連携重視という持論を持つ私とは一定の距離を置きたがっていた。これは私の主観だけで言うのではなく、当時の社内の空気を肌で知っている者ならそう感じていただろう。
私に「時事問題研究会」への参加を進めたH秘書も、経営トップに文字通り取り入っていた側近中の側近だった。ちなみにこのH秘書は、G社長の次の次の社長を務めた人物である。
いずれにせよ、「時事問題研究会」への参加を勧めるのにもG社長なりの意図があるように思える。おそらく、私に適度な間合い(彼にとって鬱陶しくない程度の距離)を意識させると同時に、「社外の情報や空気に触れて勉強してこい」と、擬似的な“父権”を発動しようとしているのである。知ってか知らずか、私には真に尊敬に値する“尊父”が三人もいたにもかかわらず、である。
だが私は考えた末、H秘書の口を借りて経営トップが勧めてきた時事問題研究会への参加を承諾することにした。
積立型・貯蓄型の保険営業の全盛期にあって、自動車保険担当の常務取締役として地道にやるべき布石はしっかり打ってあったため、日頃はルーティンワークをこなしさえすれば、社外の研究会に出るくらいの時間は捻出できたからだ。そのせいか気持ちの余裕もできてきた。もちろんこれも、私を支えてくれている優秀で信頼できる部下たちの仕事ぶりのおかげだ。
私が参加を決めた時事問題研究会というのは、三菱銀行の元常務取締役、Aさんが主宰していたシンクタンク(経済研究所)が催す勉強会で、時事問題を通して主に政治や経済について学ぶ会だった。
このAさんは、三菱退職後に経営コンサルタントをされていたが、自民党幹事長時代の大平正芳氏に政策顧問に抜擢され、さらに大平氏の要請でシンクタンクを設立した人だ。二人の信頼関係は厚く、東京商科大学(現一橋大学)出身のAさんが大平氏の後輩であることも長年の親しい交友の理由でもあったようだ。
研究会の開催は毎月1回、ホテルオークラで朝食をともにしながら、Aさんが話題を提供し、それについて参加メンバーが質問したり討論したりする。最近では珍しくない形式の勉強会だが、当時この時事問題研究会は日本で最初の朝食勉強会として知られていた。
Aさんは、政界や業界の泥臭いインサイダー情報を披瀝するような単なる情報通などではなかった。一つの事象をもとに私たち参加者の思考を刺激し、深い洞察と明快な論理展開によって私たち参加者を知的な対話世界へと導いていく。一方的に教えるという姿勢を取らず、穏やかな口ぶりで参加者に質問を投げかけ、考えさせるという意味において、彼は対話の名人だったと振り返ることができる。
私はこのAさんの博識に驚かされ、そしてその実直な人柄に惹かれて、この研究会に足を運ぶのを楽しみにするようになっていった。
「世界の安田火災」を唱えながら、実態は国内市場のキャッシュフローの取り込みばかりにあくせくし、上司の評価ばかりに気を宿している内向き傾向の社風に辟易していた私は、自分の欲望に絡め取られず、世の中の動きを冷静に見きわめる視線の大切さを、このAさんの朝食勉強会で改めて噛みしめた。
このとき以来、自分の住み慣れ過ぎた世界をもう一つの客観的な眼で外側から見てみたいと思うようになった。私はこの勉強会で、そこに送り込んだ経営トップの思惑とは違う意味合いで、自分がより成熟していくために必要なことを学んだのかもしれない。とすれば、それとなく会への参加を勧めてくれたG社長には感謝しなくてはいけない。
ミッションを持続させること
そして安田火災本社を去る日
常務60歳、専務62歳、副社長64歳、そして社長66歳──。これは、G社長が副社長だったとき、自らが取締役会に提案して承認された当時の安田火災の役員定年年齢である。その提案の背景には、当時66歳のM社長追い落としの目論見があったことはすでに述べた。
そのG社長が、60歳を前にしたある日、私にこう言ってきた。昭和63(1988)年が明けてしばらく経った頃のことだ。
「君、そろそろ60だったね。常務は60で定年と決まっているんだが、どうだ、後進に道を譲ってやってくれないか?」
私が常務になって以来、会議以外では私との間であまり仕事に関わる会話をしたがっていなかったG社長が、なぜか私の定年後のことを“心配”してくれた。社長室に呼ばれてのことだ。
ただ、このあとの言葉は何やら奇妙に入り組んだもののように聞こえた。
「この4月1日付けで君を専務にしようと思うんだ。それでだね…、専務は本来62歳までだが、6月29日の株主総会までで一旦辞めてほしい。そのあとすぐにY-TECの社長になってくれないか。62歳までは安田火災専務と同等の給料を払う。どうだ?」
Y-TECというのは、情報技術(IT)を使って主に保険・金融関連事務の情報処理を引き受ける、安田火災の小会社として設立された会社だ。正式名称を安田火災インフォメーションテクノロジー(現在の損保ジャパン日本興亜ビジネスサービス)と言い、業務の発注先の大半は親会社である安田火災を中心とした芙蓉グループ(旧安田財閥系)の一関連会社である。
G社長の言葉を簡単に言い換えれば、「Y-TECの社長にしてやるから、安田火災本社からは去れ」ということである。私は文字通り、現下に退任を迫られたわけだ。
もしこのまま私が専務に昇格してしまえば、彼はいやでも私が62歳になるまでのあと2年間は私の顔を社内で見なければならない。副社長にさせてしまったらさらに2年、合計で4年も鬱陶しい思いをする。これには彼も耐えられなかったようだ。
なぜだろうか?
実は、三好会長(当時)から言われて私を常務にするしかなかったG社長は、これまでずっと、私の存在のなかに三好武夫というかつての経営者の影を見ていたのだ。そしてその影のなかに、自分とは全く異なった経営能力と大きな度量の持ち主だった人物、三好武夫への畏怖を感じていたのである。
かつて三好社長(当時)の病気に乗じた社長交代劇を背後から演出し、それ以前も自分が経営トップに上り詰めるためにさまざまに権謀術数を巡らせてきたG社長には、安田火災中興の祖として誰からも尊敬を集める偉大な経営者への脅威が常につきまとっていたと言っていい。つまり、私の存在自体が目障りというのではなく、私の言動のなかにちらつく(とG社長が一方的に思い込んでいた)三好武夫という幻影に惑わされていたのである。
さて、ここは判断のしどころだった。私がここで「NO」を言えば、私の安田火災関係者としての生命はおそらく完全に絶たれることになる。絶対ではないにせよ、制度としての常務の定年は60歳と決められているからだ。
しかしそれでは、「この会社の行末を見届け、生き続けろ」という三好武夫会長(当時)から授かったミッションは持続できない。
子会社であるY-TECの社長を選択すれば、安田火災本社内部からではないにせよ、関連会社としてのポジションから「安田火災の行く末」を見届けることができる。それに、私はITを駆使した先端的な情報システムに関心を持っていた。新たな仕事領域に対する私の好奇心はまだ衰えてなどいなかった。
「わかりました。かつて社長が提案されて、私も賛成した定年制ですから、破るわけにはいきません。社長のそのご意向が会社にとって最良だとおっしゃるのなら、これからはY-TECでお世話になることにしましょう」
私は、相手に視線を向けて、はっきりとそのような言葉にした。
「安田火災と完全に関係が切れなるわけではない。この会社を見守っていくという私に課せられたミッションを継続していくためにも、この判断が正しい」
私は心中そのように思いながら、35年間、自分の持てる力を仕事へと懸命に注ぎ込んできた安田火災本社を去ることにした。そのとき、なぜか私の気持ちは安んじて穏やかだった。
「自分の住み慣れ過ぎた世界をもう一つの客観的な眼で外側から見てみたい」という、ここ何年かの私の思いが叶ったせいだろうか。
後日談として付け加えておけば、その後、G社長は自ら決めた社長定年である66歳を過ぎても社長を続け、平成5(1993)年、70歳のとき会長に就任。1期2年、原則2期までと自ら取り決めた会長職の期限だったが、年齢の規定はなかったためか、平成11年(1999)年、76歳まで会長を務めている。
Y-TECの独自性を求めて
職業モラルとビジネス・モラールについて
閑話休題。話題を変えよう。
Y-TECは、昭和43(1968)年に安田計算センターとして発足した会社で、私が社長に就任する2か月前に社名変更したばかりだった。発足当初から安田火災の情報管理部のアウトソーシング先として位置づけられていたため、社員には下請け会社という意識が強く、やや萎縮しているような空気が社内に漂っていた。
いくら安田火災の子会社とは言っても、ただ親会社からの受注仕事だけを請け負っていたのでは、独立した情報処理企業とは言えない。それに、親会社から自動的に仕事が降ってくるという状態に慣れてしまえば、社員の間に仕事への自立的な責任意識もやりがいも育たない。
しかも社員数は1,000人ほどだったから、決して小さな組織ではない。そこで、この1,000人全員のモチベーションを引き上げ、発展・成長・持続させていくことが、私の経営者としての最終的な目的だと考えることにした。
そしてまず、情報処理企業として自立できる方向性を模索するために、さまざま手を尽くして研究を重ねていった。もちろん、私一人だけでできることではない。志のある何人かの部下たちの協力を得てのことである。私自身、この事業領域に足を踏み入れるのは初めてのことなのだ。
当時、バブル経済の後押しもあって、大手金融各社は最先端の金融テクノロジーを駆使した情報処理ビジネスを展開しつつあった。なかには独自のIT技術の開発によって、提案型ビジネスを展開するまでに成長している情報処理専門企業も生まれていた。もちろんY-TECのように、親会社の受注仕事を専門とする子会社的な企業もあったが、それらの企業も単なる子会社に甘んじているだけではなかった。
特に芙蓉グループの金融機関には、Y-TECの先輩格に当たるような、情報処理を専門とするIT系のシステム会社がすでに何社か設立されており、私と部下たちはそこに足を運んでいろいろと情報を集めることにした。また、情報系の同業者が集う業界団体にも参加していくうち、情報技術系の専門家とも知り合うことができたが、これは単なる業界情報を仕入れるとは違った付加価値があり、最大の収穫だったと言える。
新たな事業領域に船出するときには、やはり人のネットワークを介して未知なるものを学んでいくことが必須なのである。私にとって、安田火災時代とは全く違う、さらに新たな世界の広がりが予感できる出来事になった。
ところが、私はどうやらやり過ぎたようである。
親会社である安田火災から「あまり余計なことをしてくれるな」と言われ(ほとんど叱責に近かった)、私や部下たちの前向きな志にブレーキがかけられてしまったのだ。「黙って、親会社の発注する仕事をこなしていればいい」というのである。
正直、これにはがっかりした。どこの業界にも親会社と子会社の力関係はあるものだが、安田火災本社からの叱責の仕方には、その力関係という以上に、バブル期に育ってしまった、安田火災の悪しき企業文化の影が見られたからだ。
親会社から子会社へと軸足を移動した私には、親会社の安田火災のその時期の課題や問題点が、以前よりはっきり見えるようになっていた。“国境”を越えて外部から(しかし至近距離から)眺める安田火災は、将来にわたって深くしそうな“傷”を負い始めているように見えたのだ。
一般に、社内の力関係で言えば、「黙って上の言うことを聞いていろ」ということは、社員に対して暗に「上を向いて仕事をしろ」と言っているのと同じである。そして、これのさらなる疎外型は「上のご機嫌を損ねるな」となる。
その結果、極端な場合、上司には「よい結果」だけを報告し、「都合の悪いこと」は隠すという行動パターンが常習化される。そのうち、取り返しのつかないような重大な問題ばかりが現場に蓄積するようになって、職業モラル(倫理)もビジネス・モラール(意欲)もない、コンプライアンス(法令遵守)の意識すら危うい職場文化が根づいてしまうのだ。
それは、バブル期以前の、有り体に言えば三好武夫社長時代の、「現場に眼を向けろ」という企業文化とは真逆の方向性だった。
社内で「上を向く」ということは外部との関係では「内向き」を意味する。損保業務で言えば代理店などあらゆるステークホルダー(外部関係者)に対する「外への視線」が損なわれることになり、自社と社外の関係者では往々にして力関係における威圧的な「上下」「強弱」の関係だけで物事を決めるようになっていく。
バブル期には、安田火災の「外」の“分身”とも言うべき代理店を大切にせず、社内向き、上向きの社員が増え、代理店からも、その実態が見透かされるようになりつつあった。これは経営本体の資質が低下し、組織の全体的なガバナビリティが劣化していった証しである。
代理店との丁寧な連携を大事にする損保本業の地道な事業拡充を大切にせず、市場にあふれかえるキャッシュの取り込み金融機関のような事業スタイルを採っているうちに、安田火災の企業文化・ビジネス文化の本来性が失われたと言っていい。
そしてそのような時期は、G社長時代とその子飼いの部下がその後二代にわたり連続して経営トップに就いた時期に完全に符合する。
子会社であるY-TECに対して、「黙って上(=親会社)の言うことを聞いていろ」と言ってくるのは、代理店との関係を大事にしなくなったバブル絶頂期とそれ以後の安田火災と同じ位相だった。
子会社(あるいは外部関係者)といえども、本来は親会社とフラットな関係を保てばこそ価値を生み出す効果的なパフォーマンスが可能となり、お互いがよりよきステークホルダーとして成長・発展が可能になる。しかし、そこに威圧的な力を行使すれば、子会社や外部関係者の内発的なビジネス・モラールを低下させ、場合によっては親会社が発注した業務の処理効率の低下を招きかない。子会社や外部関係者の自発性を大切にしない親会社は、子会社のモラールや責任意識を向上させることができず、実は自分の将来的な利益さえ損なうことになる。
そもそもそのような企業は、およそ自社内部のモラルとモラール双方の劣化が進んでおり、その反映として、外部関係者との良好な関係に亀裂を生じさせてしまうのである。
これは、名古屋支店長時代に私が学んだ教訓の一つだった。
しかしその後、安田火災の歴代経営トップたちがそのことの実態と本質に気づくようになるまでにはまだ20年ほどの時間が必要だった。
もちろん、バブル期に安田火災の一人の取締役の地位にあった私にも相応の責任がある。例え微力な立場であったとしても、後輩たちにより健全な企業文化を持つ安田火災を引き継いでいく努力をすべきだったのではないかと、いまも自戒と反省を込めて振り返ることがある。
現場と交わる社長としての姿勢
課題解決のための“種”の発見
話をY-TECに戻す。
独自で発展的な事業スタイルや自立的な事業展開のための研究や試みが親会社から「余計なことだ」と否定されても、社名変更によって組織を立て直す過渡期にあったため、経営者としてはやるべきことはまだまだたくさんあった。
親会社発注の情報処理業務がメインである以上、その枠組のなかで個々の業務のパフォーマンスを上げなければならない。しかも、ほぼバブル経済絶頂期の会社設立であったため、受注量はどんどん膨らんでいった。それはそれでありがたいことだが、現状のマンパワーと業務システムで対処しきれなくなっては元も子もない。採用も検討しながら、実態システムの現状を改善し、パフォーマンスを向上させる対策が急務となった。
しかし、どんどん入ってくる受注業務をこなしながら、現状の業務実態を改善するのはきわめて困難である。それでも、個々の業務の効果的な処理方法や独自ノウハウを逐次蓄積し、それを次の受注業務の効率化や処理コストの最適化のためにフィードバックするという、きわめてむずかしい業務サイクルを確立していかなければならない。
しかもそのうえで、本社との連携の上に立ち、全体を俯瞰した事業戦略が必要だ。しかし、いくら社長と言っても、問題の実態も把握せずに業務改善しろといったトップダウン的な指示を出せば、“わかっていない社長”というレッテルを貼られるだけだ。それでは信頼されるはずもない。
経営者の初期段階の振る舞いは、創成期の会社全体のモラールを左右する。上司と社員、あるいは社員同士のコミュニケーションを活性化し、それによって現場の実態や課題を効果的に共有化し、業務改善へとつなげていくことこそ必要なのだ。
これは、社員が納得しながら意欲をもって仕事を遂行していくためにも避けて通れない現場プロセスである。さらに言えば、このプロセスは社員の職場環境や待遇の改善のためにも重要であり、会社と社員の健全な関係づくりに、そして健全な企業文化にもつながっていく大切な回路だった。
そこで私は個々の業務現場へと足繁く通うことにした。
コンピュータには比較的早い時代から接していた私だったが、それでも専門の情報処理会社のなかでは素人にすぎない。幸い優秀な社員に恵まれていたため、わからないことを素直かつ率直に質問すれば、専門のシステム担当者がわかりやすく説明してくれる。そのやり取りが新米社長の知的好奇心を一層活性化してくれるのだ。
しかも、専門のエンジニアも、私のような門外漢と会話しているうちに素人に伝えるということのむずかしさを知るようになり、説明もだんだんと上手くなっていく。この社員のあり様の変化自体が私にはとても興味深いことであり、大きな刺激になった。
例えば、受注した事務処理案件を現状のコンピュータシステムで納期通りに完了させるには、具体的なタイムスケジュールに見合った工程管理と運用システムとのマッチングが必要となる。しかし、作業の経験知がまだ希少な業務の場合、実際に一つひとつの作業を繰り返し試みてみないことには、有効な方法やノウハウの蓄積には至らない。
また、技術的な問題以外にも業務進行上の課題がある。大量の情報処理業務の納期を厳守するためには、場合によっては作業担当者のローテーションや作業シフトを個々のエンジニアの技量に合わせて編集し直す必要も出てくる。その実際を知るためには、時として夜勤作業員に付き合って徹夜作業の実態を知る必要もあった。
最初は社長が業務の現場に立ち入ることを嫌がる社員もいたが、何度も足を運ぶうちに社員たちも慣れてきて、ちょっとした会話を通して彼らとの距離も少しずつ縮まっていく。未知の領域の知識に耳を傾けることが、これほど面白いものだったかと改めて感じる瞬間がそこにはあった。
何人かの社員は積極的に現状の課題を逐一説明してくれるようになり、時として職場環境の改善テーマを前向きに訴えてくる社員もいて、親しく対話する機会も増えていく。
正直なところ、私には社員たちとのそのようなやりとり自体が興味深かったし、楽しかった(この際、彼らがこの新米社長について正直どう思っていたかは問わないことにしておくが…)。
まさに現場には課題解決のための“種”が潜んでいる、そのことを改めて学ぶことになった。
社長という役職を与えられているとは言え、入社1年目は新入社員のようなものだ。そこで、仕事ではもちろん、さまざまなチャネルでできるだけ多くの社員と接点を持つように心がけた。
社員全員をちゃんと知ろうとしても無理だが、仕事での接点を増やしていくうちに、一人ひとりの社員の仕事ぶりや思考の傾向、あるいはキャラクターなどについても、少しずつわかってくる。そんなとき、趣味の領域での会話が少しでも聞こえてくると、ピクッと自分のアンテナは反応するものだ。
ある日の課長会議で、自分が写真を趣味にしていることを話題にしたことがあった。すると、会議が終わって自分の部屋にもどろうとする私に、一人の課長が声をかけてきてくれた。
「確かN君と言ったかな」と思っていると、彼は楽しげに話しだすのだ。
「社長、私も写真が趣味でして。腕前はとにかく、キャリアだけは長いんです」
これに私が反応しないわけがない。うれしくなってさらに聞いてみると、根っからの写真好きのようなのだ。カメラやレンズについてもめっぽう詳しい。するとそこに、もう一人の課長、A君が話の輪に入ってきた。彼も若い頃から写真マニアだったと言うではないか。
ちょっとした立ち話のはずが、しばらくの間、3人で写真談義に花を咲かせてしまった。
以来、その2人の課長とは富士山の撮影のために忍野村近辺に出かけて行ったり、お互いの作品を批評し合ったりという写真仲間になっていった。そしてそのたびに、新米社長にとって、単に個人的な趣味についても胸襟を開いて気軽に語り合える社員がいてくれることのありがた味を知ることになった。
裏返せば、会社の経営トップというものは、はたから思われている以上に孤独な存在だということかもしれない。そう思うにつけ、ふと、私が安田火災に入社してからの歴代4人の社長のそれぞれの顔を思い浮かべることもあった。孤独にもさまざまな形と種類があるようだ。
念願のライカM6を手に入れる
命がけの本社ビル空撮
N君、A君たちとの小さな “写真同好会”結成をきっかけに、若き日から欲しいと思っていたライカM6を購入する決心をした。学生時代に憧れていたM3から、数代にわたって進化した当時の新機種だ。価格は35年ほど前とほとんど変わらず、約26万円だった
標準レンズ(ズミルクス)のほかに、広角(ズミクロン)とエルマリート90mm、それにエルマー135mmといったレンズもそろえた。しばらくの間、誰が見てもご満悦という顔つきをしていたはずだ。
エルマリート90mmはポートレイトを撮るのに適していて、家族や友人の撮影にはこれをよく使った。一方のエルマー135mmは風景(遠景)用と思って買ったのだが、これがその後、面白いことに役立つことになった。
一つには、セスナ機をチャーターし、安田火災の本社ビルを撮影したことだ。
実は、昭和51(1976)年に本社ビルが完成したときから、見上げてばかりいる写真だけでなく、あの優美な建物の全景を上から見下ろして撮ってみたいとずっと切望していたのである。要は、「本社ビルを鳥の目で見てみたい」ということだ。もの好きといえばもの好きかもしれない。
しかし、単純に飛行機の窓越しに撮るありがちなスナップを残したいわけではない。ちゃんとした一つの作品として本社ビルの雄姿をカメラに収めたいのである。そこで、伝手を頼って航空写真家の山縣賢一さんに指導していただくことにした。
そして撮影当日。絶好の撮影日和、雲一つない晴天である。調布の飛行場から飛び立ったときから、私たちの目には、西新宿の超高層ビル群が新宿副都心のランドマークとしてくっきりとその輪郭が捉えられていた。もちろん、めざす本社ビルはその一角を占めている。近づくにつれ、私は興奮の度合いを強めていった。
山縣さんから事前にさまざまな注意点を教授していただいたものの、本社ビルの間近にまでセスナ機が飛んでいくと、撮影する位置とタイミングを測るのがけっこうむずかしいことに気づく。パンタロンビルとも呼ばれる本社ビルの足元の曲線美までを画角に入れ込むためには、最適の飛行コースを行き、どの瞬間にシャッターを切るかが問われる。
しかも、飛行中のセスナ機は意外と激しく振動しているため、撮影する間はエンジンを停止して、グライダー状態で飛ばなければならない。当然のことだが、その短い時間にセスナ機の高度は想像以上の速度で下がっていくのだ。いくら陸軍予科士官学校で航空を志願した私でも、これには緊張の度合いを強めるしかなかった。
そのうえ、ライカM6にはモータードライブ式のいわゆるオートワインダー(自動フィルム巻取り機)が装着できない。セスナがグライダーのように落下しながら宙を滑空している短い時間に何度もシャッターボタンを押し、1本36コマのフィルムを手巻きで素早く巻き取らなければならないのだ。
そこでまず、本社ビルを撮影する画角と高度を勘案し、JR山手線の大ガードを目印にした。そして、大ガードの上空に差しかかったとき山縣さんに合図を送り、セスナ機のエンジンを止めてもらった。
高度約400m──。セスナの振動が止まり、静かに空中を滑りはじめる。一瞬の緊張が走り、私は夢中でシャッターを切った。
ところが、である。この第一回目の緊張感に満ちた撮影は、何としたことか、すべて空振りに終わってしまったのだ。フィルムのパーフォレーション(フィルムを送る穴)がカメラ内の歯車と噛み合っておらず、1コマも撮影できていなかったのである。これには、心底落胆した。
そこで日を改めて撮影することにして、山縣さんとともに前回の大失敗をさまざまな角度から検証してみた。その結果、ライカをもう1台購入することにしたのだ。よい写真を撮るためには必要な投資を惜しんではいけない(これは負け惜しみではない)。
エンジンを停止したセスナ機が空中を行く間、できるだけ多くのコマ数を撮るためには、1台のカメラで撮り切ったら、すぐに2台目と取り替えて撮影するのがベターだと考えたからだ。この方法なら、合計で72コマの画像が撮れることになる。
そして2度目の撮影日。その日もまさに撮影日和。前回同様、お天気の神様は私に味方してくれている。今度こそ…。
ここは結論を先に言ってしまおう。1回目の撮影の反省と工夫を経て、2台のライカに装填されたフィルムには、それぞれに本社ビルの優雅な姿をくっきりと定着することができたのである。
こうして、山縣賢一さんの懇切な指導の下で、本社ビルの空撮は成功裏に終わることができたのだった。
本社ビルにちなんだ写真撮影のエピソードはまだある。今度は本社ビルを被写体にするのではなく、本社ビルから眺めた新宿の街の姿を撮るのが目的である。
と言って、単にビルの高層階から撮ったのでは、窓ガラスが邪魔になる。ガラス越しではなく、空気だけを通して新宿の光景を直に撮影したいということだ。
となると、本社ビルの屋上からの撮影ということになる。地上約200mの屋上は、さすがに会社では原則立ち入り禁止にしていた。しかし、このときには私なりに事情があった。安田火災を退社する友人に、「屋上から見える新宿の街の写真を記念に上げよう」と約束していたのである。
勝手な約束と言えばその通りだが、実はこれも一度は挑戦してみたいと思っていたことだった。写真好きの血が騒ぐとでも言おうか。面白そうな被写体を撮影するアイデアが浮かぶと、すぐに実行したくなる性分なのである。
当然のことながら、会社の総務部は屋上へ上ることを拒絶していたが、私の強い要望に最終的には折れてくれた。OBの申し出にしぶしぶ承諾したというところだろう。
しかし屋上に上ってみると、さすがに200mの高さから見下ろす光景には足がすくんだ。飛行機で地上300m以上に上昇すると、高度に対する人間の恐怖心はなくなる。陸軍予科士官学校時代の航空心理学でそのように学んだ覚えがあったが、それにはまだ100m以上も足りない。むしろ目いっぱいの恐怖心が襲ってくる高さである。
しかも、本社ビルの屋上にはフェンスと呼べるようなものは何もないのだ。万が一落ちれば、即死は間違いない。200mの高さからだと、地上に到達するまでいくらか断末魔の時間を味わうことになるだろう。一瞬、そんな思いもよぎった。
しかし、撮影意欲の方が優っている私は、まず屋上の縁(向こう側は地獄)から安全そうな距離を取り、三脚を立てる。これにライカM6を取り付けてファインダーを覗いてみる。
撮影に入ってしまうと、いろんな角度で新宿の街を切り取ることに夢中になるものだ。
この画角、あの画角、いや、こっちもいい、うん、これもいい…。
撮影したのはちょうど8月15日。真夏だけに陽射しはきついが、中高層ビルの屋上では清涼な風が心地いい。新宿の街ばかりでない。東京全体のビル群の向こうに、東京湾のきらきらした海面はもちろん、そのはるか彼方、房総半島まで見通すことができる。
その遠い背景までを入れて手前の新宿東口付近までを撮ろうとすると、少しずつ前に出て行かないといけない。私は三脚をだんだん屋上のヘリに近づけていく。そして、ハッと気づくのだ。
危ない、危ない。これ以上は前には行けない…。
しばらく撮影していると、夕景の新宿になった。あちこちで少しずつネオンサインの光が灯っていく。なかなかいい光景だ。
そうやって半日、高度200mの高さから、ファインダーを覗いているのだった。
この屋上からの撮影は、実は数回試みている。そのたびごとに細心の注意を払って撮影はしていたが、それでも万が一のことがないとは言えない。
そこで最後の撮影を終えた日、総務部長に「あの屋上はやはり危険だよ。だから今後は絶対に上がらせない方がいい。絶対禁止だ」と念を押すように言った。対する総務部長は、「さんざん上っておいて、なんて勝手な言い草なんだ」と口には出さなかったものの、そう言いたげな表情で苦笑いしていた。
「間もなくバブルは弾ける」という言葉
「あほうどり通信」の上梓から見えてきたこと
Y-TECに移って2年目、平成元(1989)年の暮、東京株式市場大納会でダウ平均の終値が史上最高値(確か39,000円近くだった)をつけた。私も安田火災の株主の一人だったので、これには驚かされたことを記憶している。
ただ、Y-TECの業務上の課題解決や軌道に乗りはじめた頃でもあり、社長業に一生懸命で、株式の動向については特別な関心を持っていなかった。だから、その当時の株や土地などの異常な価格高騰を知っても、それが実体経済の成長とはかけ離れた危ういバブル景気であるという見方は、もちろんしていなかった。
ただ、親会社がマネーストックの潤沢さに任せてあちこちの土地を購入し、そこに豪華な研修所や保養所といった箱モノを建設し、あるいは全国の支店ビルをどんどん新設したり建て替えたりしていることを知ったとき、関連会社の社長として、また株主の一人として何やら心配になったことは覚えている。
もっとも、社員研修や社員たちの慰安のためなどに、それらの施設をけっこう活用させてもらうという恩恵に与ったことがあるので、単純に批判めいたことは言える立場ではないが…。
年が明けて新年(1990年)、私はある団体の例会に出席した。そこで、著名な財界人の一人で、陸軍幼年学校と士官学校の大先輩でもある人物が講演し、「カネがダブついている。これをバブルと言わずして何というか? バブルは必ず弾ける。株を持っている人は売ったほうがいい」と発言したのだ。
当時、何人かの政治家のブレーンや臨時行政調査会の委員を務め、政界ともつながりを持っていたその人が、どのような事実をもってバブル崩壊の予測を口にしたのかは皆目わからなかった(いまもわかっているわけではない)。
ところが、その数日後の大発会から、株価はだんだんと下がり始めたのである。そして以後ダウ平均のグラフはじりじりと右下がりの線を描き、その年の9月には、前年の大納会での終値をピークとして、そのほぼ半分にまで暴落したのだった。
「ならばなぜ、『バブルは必ず弾ける』と聞かされたときに株を売らなかったのか?」と、ある人から聞かれたことがあった。私はそれに対してはこう答えた。
「私は安田火災の関連会社の社長であって、その株式を持つ一株主として親会社を支えているという立場です。価格が上がると予め知ってこれを売ってしまえば、インサイダー取り引きになってしまいます。だから、値上がりしたから売り抜けて儲けようとは思いません」
いささか優等生の答えのようだが、実は株を売らないというこの言い分を支えるもう一つの理由があった。それは私の気持ちの問題である。
安田火災は、私をそれなりの職業人に育ててくれたある種のコミュニティとして位置づけられていたと言ってもおかしくない。どのような経緯で親会社を辞し、どのような見識によって現状の安田火災を見ていようとも、少なくともその当時において、私にとって実社会におけるかけがえのない自己成長の現場だったのである。
だから、少なくとも関連会社にいて安田火災を近くで見守っていられる間は、株主の一人として親会社を支える立場を放棄したくはなかったのだ。だから、その持ち株を売るときがくるとするなら、それは私が安田火災をも守る必要を感じなくなったときに限られる。そして“そのとき”がほぼ10年後にやってくることになるとは、当時の私はまだ気づいていない。
株や土地の価格が下落はじめていたとは言え、一般にはまだバブル経済なるものが崩壊しつつあるという認識はほとんどなかったはずだ。ただ、少しずつではあるが、親会社である安田火災からの事務処理案件の発注が減りはじめていたことが、子会社の経営者としては気がかりだった。
そんな頃、私にとってはちょっと愉快な出来事があった。「あほうどり通信」という一冊の本を編集・上梓したのだ。安田火災時代に折にふれてしたためてきた文章を二部構成で編集したものである。
第一部は、広報誌などに書いてきたエッセイを20編ほど選んだ「私の歩んだ損害保険の道」。
第二部は、24部店を担当した常務取締役の時代に、各部店長たちとのコミュニケーション・ツールとして書いていた「よどばし通信」全34号のセレクト版である。
もちろん、個々の文章を書いた当初は、一冊にまとめるなどとは思ってもみなかったが、安田火災の後輩、O君の勧めがあったのでこの書物となった。
「後輩たちのビジネスライフに役立つメッセージが含まれているから」と、O君からもらったうれしい言葉に背中を押されて、「それならば」と思い切って編集することにしたのだ。
執筆も編集も専門としていない私が、こんな一冊を書物の形にしていくにはやはり一人でできるものではない。装画やレイアウトは専門の方々に協力してもらったし、序文も古くからの親友に書いてもらったりした。
「伊室一義君のこと」と題する序文を寄稿してくれたのは、旧制静岡高校時代からの40年来(当時)の友、佐治俊彦君だ。学生時代、私が分不相応にも買ってしまった家に、下宿人第一号として同居したこともある彼は(第1章 第2部参照)、その後、毎日新聞社に入って記者の道に進み、この頃には常務取締役になっていた。
彼の原稿が届いたときには、さすがに私の本文と比べて実に軽妙で品のある名文だったので、正直なところ一瞬だけたじろいだ。しかし、佐治君は私の原稿の全体を真摯に読み直してくれたうえで序文を起こしてくれたのだ。熟達の記者としての技量によって、私と彼自身への、そして同時代を生きた仲間たちへの応援歌のような言葉遣いを熟慮してくれている。私の本文原稿と並べてみると、かえって佐治君の名文が書物全体の意義と品位とを高める役割を果たしてくれていることに気づくのだ。
私はありがたく佐治君の序文をこの書物の冒頭に冠することにした。
一方で、私が基本的に想定した読者は、安田火災の後輩やかつての部下たち、あるいは安田火災の関係者だった。退社してもなお、私を職業人として育てくれたコミュニティとしての安田火災といまもつながっているという思いがそうさせたのかもしれない。
「非売品」としたのは、想定した読者の範囲で読んでもらえればいいという気持ちからだ。広く世に問うという性質のものではなく、内容も当時の社員向けだったという理由もある。それに、あくまでも素人の手による拙文であって、お金をいただいて一般読者に読んでいただくというほどの自信もなかった。
当然のことながら、掲載すべき文章を選ぶ際には全て通読する必要がある。それは、文字通り新米社員時代からの仕事上の足取りをたどる作業でもある。読みなおしたとき、それぞれのテキストを記したその時々の自分と改めて対面するような、そんな気持ちが沸き起こっていた。
とりわけ第二部の「よどばし通信」を書いていたのは、私にとって仕事上で過酷な時間を過ごしていた時期だ。忙殺されそうな日々、普段から四方八方へと話題を求めてセンサーを張り巡らし、ネタを拾い集めた。それでも夜分に執筆するときには、集中して何とか形にしていた自分の姿が思い出される。通信発行のスタート時点での動機は、各部店社員と担当取締役である私とのコミュニケーションの停滞を防ぎたいということだったが、いま思えば、ネタ集めから執筆に至るまでの全てが、意外に楽しかったのだ。
タイトルの「あほうどり通信」は、昭和49(1974)に府中カントリークラブで奇跡のアルバトロス(パーより3打少なく1ホールを決めること)を達成したことに由来する(第2章 第2部参照)。ほかにもいろいろタイトル案を考えてみたが、たまに冗談交じりの軽い文体で綴ってはいるものの、それでも中身はやや教訓的な仕事がらみの話題が多いので、タイトルでは遊び心を表現したいと思った。
自分なりにコツコツと仕事に励んできた私の傍らにはいつもゴルフがあった。それが仕事と同等の比重を占め、いまやゴルフのない私の人生など想像すらできない。生きるうえで不可欠な“真剣な遊び”と言い換えてもいいだろう。
「あほうどり=アルバトロス」は、私にとって“真剣な遊び”のシンボルなのである。
安田火災ローン総合サービスへの転身
「赤甍 東京陸軍幼年学校台46期生50年史」編纂
Y-TECの事業も順調な軌道に乗り、社長業を4年間務めた頃、一つの区切りとして後任に道を譲ることにした。平成4(1992)年4月のことだ。
そして今度は、これも安田火災の関連会社、安田火災ローン総合サービス(損保ジャパン日本興亜クレジットの前身)という会社の社長に転出することになった。個人ローンの信用保証とクレジット業務を行う会社である。
ここでもやはり子会社という位置づけに制約を感じている空気があったため、Y-TEC時代と同じように活性化を図ろうと奮起することにした。親会社からの制約を単なる圧力として受け止めるのではなく、子会社であろうとも、その制約のなかにおいても自らの独自性と自立性の実現は必ずなしうる──。それが社員たちに伝えたい経営者としての課題意識だった。
そこで、全国管理者の研修会を開催したり、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡など出先に赴いたりして、全社的なの志気高揚を図った。それぞれの現場に足を運ぶという手法は、Y-TECのときとまったく同じである。
ただ、基本的な業務マニュアルが比較的よく整備されており、運用上の技術的問題も少なく、また、個別の業務ノウハウの共有化などもある程度行われていたため、Y-TEC時代に比べると、結果として社長業としての実働はかなり軽減されることになった。
そのため、ありがたいことに、個人的な時間を捻出する余裕もできたので、趣味の写真により本格的に取り組むことができるようになっていった。しばらくおとなしくしていた私の撮影意欲に、火がつきつつあった。
しかしタイミングというものは面白いものだ。
自慢のライカM6を駆使して徹底的に写真を撮るぞと思っているところに、そのライカに特別な役割を与えてくれる機会がやってきたのである。もちろん、個人的な写真趣味は私なりに充実させていたが、私の撮影意欲を活かすチャンスが別のところから訪れたのだ。それも二度にわたって。
まず一度目は、東京陸軍幼年学校(東幼)46期生の入校50周年の記念史、『赤甍』の編纂に伴うものだった。この取り組みにおいて、編集実務と同時に、主に口絵のカラー写真の撮影を担当することになったのだ。
ことの始まりは、平成4年の46期生忘年会での私の発言にあった。
そのとき、私たち46期が東幼に入校して50年という歳月が経っていた。しかし私たち卒業生には卒業アルバムというものがない。いつからかそのことを寂しく思っていた私は、忘年会の席で「『50年史』を作ったらどうか」と提案したのである。
「そんな大変なことができるのか?」という意見も一部にはあったが、提案者の私が何とか説得していくと、最初は異論を唱えた友人も次第に理解してくれるようになった。そして、最後にはみんなが「よし、やろう!」と賛同してくれたのだ。
ところが、当然のことだが、「で、誰がやるんだ?」という声が上がる。すると全員の視線が私に集まり、「言い出しっぺのお前がやれ!」とまっ先に指名されたのである。
これが、私が編集責任者を引き受けることになった顛末だ。
もちろん私1人でこなせる作業ではない。150名近い同期生はもちろん、お世話になった助教や生徒監、護民の方々に原稿を依頼し、必要なページに置く写真や図案を検討し、レイアウトや校正を行い…。そのような数々の編集作業が山積みである。予定ではB5版で300ページを優に超えそうな書籍体裁(実際は366ページだった)の製作を、どのような体制でこなしていったらよいのか。もちろん簡単ではなかったが、しかし意外にもそれほど大きな波乱もなく事態は進行していった。
3つあった各訓育班(クラスのようなものだ)から1人ずつの編集委員を選出し、それぞれの編集段階で必要な助っ人を何人か依頼するという臨機応変な編集員会がスムーズに稼働したのだ。こうして、多少の紆余曲折はあったものの、私たち念願の『赤甍 東京陸軍幼年学校第46期生50年史」は、2年の歳月をかけて、見事に完成したのである。
ちなみに、『赤甍』とは、かつての東幼の本校舎の屋根を飾っていた、鮮やかな赤の甍から名付けられた題名である。
この間、私の職場である安田火災ローン総合サービスの社員にも、イレギュラーながらサポートしてもらった。私の個人的な作業につき合わせていいものかとは思ったが、それでもいとわず前向きに手助けしてくれた社員たちには心から感謝するしかない。
さて、この『赤甍』編纂作業における私の写真撮影の出番はと言えば、こうである。
一つには、口絵写真として多摩森林科学園で撮影した2種類の桜のカラー写真を、そして本文カットとして戦後に撮影したいくつかのモノクロ写真を、それぞれ提供することになった。
ところがもう一つ、安田火災本社ビルの空撮でお世話になった航空写真家の山縣賢一さんに再び協力を仰ぐ事態が発生したのである。
私たちが最初に入校した東幼(通称戸山台)はいまの新宿区戸山(戸山ハイツ周辺)にあったわけだが、その現在の全景を空撮しようというのだ。それに加えて、戦局が厳しくなった昭和19年3月に八王子に移転した東幼(通称建武台)の跡地も、空から撮影することになった。
すでに安田火災本社ビルの空撮を二度経験していたため、今回の2か所の空撮はそれほどむずかしいものではなかった。なぜなら、どちらのロケーションにも西新宿に乱立するような超高層ビルは周囲には全くないからだ。したがって、撮影当日は目の覚めるような晴天のなか、チャーターしたセスナ機の機上から、私は思うままにシャッターボタンを押すことができた。
ただ、そのとき、私にはそれなりに別の感慨にも襲われていた。かつて私たちが意気盛んな少年期を過ごした東幼のいずれの跡地にも、マンションや団地が整然と群れをなす光景を眼下に見たのだ。それには、さすがの私も、半世紀という歳月の進行をしみじみと感じるしかなかった。
東松山カントリークラブとの縁
精一杯生きた母の死に思う
では、私の撮影意欲を活かす二度目のチャンスはどんなものだったのか。これには少しだけ説明を要する。
平成4(1992)年の夏だったか、私が会員である東松山カントリークラブ(以下東松山CC)の広報委員長Aさんと副委員長Sさんの二人が、そろって安田火災ローン総合サービスに私を訪ねて来られた。急な来社に驚いたが、その用件はと聞けば、およそ次のようなことだった。
来年、東松山CCが創立30周年を迎える。そこで「30周年記念誌」を製作したいのだが、その写真撮影に協力してくれないか、というのである。私が写真をやることを他の会員にでも聞いてきたらしい。
そのときは「なんで私に?」と思ったが、事情を聞くと次第に引き受けざるをえない状況になってきた。
東松山CCでは、最初、とあるプロの写真家に撮影を依頼しようとしたが、その人が全くゴルフの心得がないので、ゴルフ場のどこをどのように撮影してよいものか、どうも要領をえなかったと言う。そのうえ、撮影費として要求された金額が法外で、バブルが弾けつつある現状では到底捻出できない。そこで、「どうでしょうか、伊室さん。クラブの会員でもあり、写真ができて、ゴルフにも精通しているあなたに、ぜひご協力を仰ぎたいのですが」と、お二人は熱心に説くのである。
そこまで言われたら、写真好きでゴルフ好きの私は無碍に断れなくなってしまう。その場では「撮影協力だけなら」とつもりで承諾したのだが、あとから東松山CCのN理事長の強い要請で、とうとう私自身が撮影することになってしまったのだ。
東松山CCの設計は、名コースと言われる霞ヶ関カンツリー倶楽部「東コース」を設計した、藤田欽哉氏の手によるものだ。彼が設計したコースには、自然の地形、起伏や池を活かす独特の設計思想がふんだんに込められている。東松山CCもその例外ではない。
その東松山CCのあふれる魅力をそのままに撮影することは、確かにむずかしい仕事かもしれない。フェアウェイ、バンカー、グリーンなどの一つひとつを個別に撮影してそれらしくきれいに見せることは可能だが、全体的な起伏や位置関係、周囲の緑の美しさなどをトータルに勘案して撮影するとなると、写真の技術だけではなく、ゴルフ場の設計思想までを含んだゴルフについての教養が必要となるだろう。
その意味では、この私が本当に適任であるかどうかは別として、この撮影依頼の申し出が魅力的であることは確かだった。
撮影を引き受けた以上は、プレーするときとは違った見方で改めて現場をロケハンする必要がある。選んだのは、これも名コースの一つ、西の7番ホールだ。
しかし、このホールの起伏と周囲の緑の佇まいを捉えるためには、どうしても俯瞰で撮影しなければならない。そこでクレーン車を用意してもらい、そのゴンドラに乗って14mの高さ(これがけっこう怖い高さだった)まで上げてもらったが、近くの松が邪魔をしてうまいアングルにならないのだ。
すると私のなかであることが閃いてしまった。この際、もう一度、空撮という手を使うしかないのではないか。思い立ったら吉日、早速、航空写真家の山縣賢一さんに協力をお願いし、とうとう生涯三度目の空撮経験となった次第である。
この話には続きがある。
東松山CCの創立30周年記念誌は滞りなく完成したのだが、このときの写真撮影が縁となって、このクラブの理事となり、同時にその競技副委員長に選ばれたのである(平成5/1993年)。
ところがことはそれだけに留まらなかった。今度は、クラブの運営会社の社長をやってくれという依頼が舞い込んできたのだ。これには正直なところ一瞬、戸惑った。
一般にゴルフクラブの運営は、意思決定機関である理事会が運営上の決議を行い、その決議内容を運営会社が執行するという形で行われることが多い。東松山CCもまた同様である。
この頃はまさにバブル崩壊が誰の目にもはっきりしてきた時期であり、このクラブでも御多分にもれず来場者数はかなり減ってきていた。しかし、そのときの運営会社の社長は、赤字続きにもかかわらず、経営立て直しの努力を著しく怠ったようで、理事会は彼を解雇してしまった。ところがその後任を決めていなかったというのだ。ちょっと牧歌的な感じもするが(笑)。
そこで、理事でもあり、二度の社長経験もある私に、白羽の矢が立てられたわけである。
とは言え、私がこれまで係わってきた会社経営とは全くの畑違いのゴルフ場経営だ。最初は固辞したが、対する先方の押しはかなり強かった。結果として懇切な説得に私は折れ、株式会社東松山CCの経営を預かることになったのである。
前職の安田火災ローン総合ビジネスの社長の任期は2年だったので、平成6(1994)年6月にその任を辞し、1年間のブランクを経たのち、私は三度目の社長へと転戦を果たした。平成7(1995)年6月のことだ。
また、これと並行して、名古屋支店長時代の取り引でお世話になった竹田印刷株式会社の監査役を引き受けたことも記しておこう。安田ローンサービスの社長退任の直前に社長のKさんが来社された折、「安田火災を離れるのなら、ぜひ」というお話があったためだ。
この仕事は、東松山CCの社長と兼務だったが、以後、何とか平成13(2001)年までの6年間を務めることができた。
振り返ってみると面白い。一つひとつ与えられてきたことをコツコツとこなしていると、なぜか次の自分の役割を与えてくれる人がやってくる。これは一つの運かもしれないと、さすがにこの東松山CCの経営を引き受けたときには思った。
それにしても、このタイミングで、まさか連続して3つ目の社長職が与えられることになろうとは、誰が想像できただろうか。
率直なところを言えば、実は安田火災を退職してからの方が、自分から見ても魅力的で充実した人生を送っているように感じる。2つの関連会社や東松山CCの社長業に専念できたこの頃の私には、上からのつまらない抑圧も少ないせいか、社員や部下たちと交わる機会が増えていくのが心地よかった。
60も半ばを過ぎて初老と呼ばれる年齢に差しかかってはいたが、健康にさえ気をつけていれば、この先の人生をむしろ楽しんで味わえるようになる。
ここで一つ、記しておかなければならないことがある。話はさかのぼるが、平成4(1992)年の2月16日、私の母、敏子がなくなっている。享年92歳である。
この母の死に際しても、私は自分の親不孝を詫びなければならない。それは父のときと同様に、伊室という家の唯一の長男である私が、14歳で東京陸軍幼年学校に入校して以来、二度と両親とは同じ家に住むことがなかったということへの詫びである。
母は一時期、岐阜大学の教授(家政学)をしていた私の一番上の姉、純子と同居していた。純子は父が亡くなってから、母を引き取ってくれていたのだ。その後、純子は名古屋に移ったが、そのときも母を引き連れての転居だった。
最晩年の母を名古屋の病院に見舞ったとき、あまり意識のはっきりしないままの母の頭が以前の白髪だけはなく、一部に黒髪が戻っていることに驚いた。
純子によれば、カテーテルを使った中心静脈栄養法によって効率よく栄養補給ができるようになったため、髪の毛まで栄養がうまく行きわたったせいではないかと言う。しかし、自分の意志で自発的に食べられなくなっても、そのように生かされている母の姿に、私は言葉には表しにくい何か切ない思いを禁じえなかった。
私の追想のなかの母は、5女1男を産み育て、ときとして独特の気丈さと頑固さを見せながら、しかし父の事業をしっかりと下支えしている昔気質の女性だった。そして、その小柄な身体を縦横に駆使し、精一杯の生き方を常に私に見せてくれていた、そんな存在だった。
母の最期の病床を見舞ったとき私は64歳だった。それまで母の静かに老いゆく傍らにいてあげることもできず、その後半生にゆっくりとつき合うこともできなかった自分を申し訳ないと思いながら、自分の老いの意味も考えの射程に入れなければならない時期にさしかかっていた。
私は私なりに、精一杯の老いのあり方を求めていく未来をまだ携えていた。