【第3章】「成熟」へのステージ

4つの補遺

ここに補遺というべき4つの拙文を付け加えておきたい。

共通するのは、私にとってこのうえなく大切な仲間の“集う場”についてのものだということである。いま、私はその仲間たちに、ありがたくも尊い役割を与えられている。

どのように考えようとも、私の人生は、実に多くの「他者」によって生かされてきたということに尽きる。人生の最終段階において、その思いはますます強くなりつつある。

本文と重複する内容もあるが、ここに4つの補遺を改めて記し、私の人生にいろどりを与えてくれた方々に心から感謝の気持ちを表したい。

補遺-1.
陸士61期生会代表幹事を拝命
私たちには伝える責務がある

3月10日、B29の大空襲によって帝都東京が焦土と化した昭和20年、私たちは東京陸軍幼年学校を卒業し、朝霞の陸軍予科士官学校へ第61期生として入校した。そしてそのわずか4か月半後、日本は敗戦の日を迎えた。

そのとき、士官学校の生徒は全員銃殺刑になるらしいという噂が流れて、証拠となるような軍隊手牒、日記、名簿等のすべてを焼却させられた。したがって、最後の陸軍予科士官学校生である私たちには、「そこで学んだ」という確固たる記録が何一つ残されていない。あるのは、私たち同期生の記憶のなかの事実だけである。

しかし戦後、同期生会を復活しようという声が挙がり、有志によって名簿が作られた。そして昭和44(1969)年、実に終戦後25年を経て、第61期生会全国総会が開催されたのである。

ただその当時、私は安田火災の課長時代で超多忙を極めていたため、何のお手伝いもできなかった。このことはしばらく私の心残りになっていた。

ところが平成25(2013)年4月、61期生会広報委員長のI君から、平成27(2015)年4月に代表幹事になるという前提で、私が副代表幹事に推薦されたという連絡が入った。いろいろと時間を割かれるという心配もあったが、名誉なことだと思い、お引き受けすることにした。

この陸士61期生会では、毎月月末火曜日に常任幹事会、月初火曜日に幹事会、第3週水曜日には靖国神社月例参拝などの予定が組まれ、さらに公益財団法人偕行社の諸行事にも出席することになる。その意味では、ずいぶん多方面の人々との接触が増えた。

そこで私が認識したのは、次の2点だった。

1.陸士61期生会は実に多くの方々が尽力されて今日に至っているということ。

2.旧陸軍将校の集まりであった偕行社は、「英霊に敬意を。日本に誇りを」をスローガンに公益法人として認定され、活動を続けてきたが、旧陸軍将校の先輩期は次々に物故され、断絶の危険がある。そのため、これを陸上自衛官幹部の方々に引き継ぐこととなり、61期生は丁度その繋ぎ目として機能しなければならない。

もともと、陸士61期生会は陸軍経理学校第10期生と陸軍軍官学校第7期生を含めて総員6,085名で構成されていたが、寄る年波には勝てず、平成27(2015)年2月現在では2,156名となっている。

その平成27(2015)年10月30日に開催される61期生会全国総会が、本年をもって組織として終わりとすることが決定されたのだ。メンバーのほとんど全員が米寿に達したということが一番の理由である。つまり私は、その最後の総会を取り仕切る役割をいただいたことになる。

顧みれば、61期生は学校に在籍したのは甲生徒が11か月、中学出身乙生徒は6か月半、幼年学校出身者は4か月半と短かった。しかし、国を守るために陸軍将校を志したという共通項が同期生の絆となっていた。この絆は、戦後もずっと消えることなく持続してきたと言っていい。

さまざまな地域や職域において知らず知らずのうちに再会し、会話を交わすうちに、「貴方とは同期生でしたか」と意気投合する場面がどれだけあったことか。そして、いつの間にかお互いが助け合う間柄になっていくのである。

私も、安田火災で自動車保険を担当していたとき(第1次石油ショックの頃だ)、その約款改定作業の場において大蔵省銀行局保険第二課にいたIさんという同期生と偶然にも再会し、ずいぶんと助けられた(第2章 第2部参照)。また名古屋支店に支店長として赴任したとき、ある自動車ディーラーとトラブルが起こったにもかかわらず、その副社長が同期生だとわかると、周囲の者がびっくりするほど短い時間でそのトラブルが解決してしまったという場面もあった。

私たち同期のつながりは、普段は見えなくとも、一瞬にしてかつての間柄に戻ってしまうほど強い根を張り巡らしているのである。

昭和20年4月29日、最初に私たちが顔合わせをし、同期生会が結成されたとき、その校長訓辞に、「戦場においてありがたきものは同期生である」とあった。その言葉通り、戦後、私たち同期生がお互いに助け合った場面は数え切れないほどだ。それによって日本の復興に貢献できた部分も大きいのではないかと思う。

叶うものなら、平成27(2015)年10月30日の最後の全国総会には、子どもやお孫さんにも出席していただけたらと祈念する。そして、親父やお爺ちゃんたちの「同期の絆」がどんなものか、直に見てもらえたら幸いである。

言葉にはなりにくい事実を伝える責務は、多くを体験した私たちにこそあるのだという思いをこめて、私はいま、そのように考えている。

補遺-2.
サバンナクラブ事務局長として

サバンナクラブは昭和51(1976)年、故小倉寛太郎さんの発意で、初代会長に戸川幸夫さんを迎えて発足した。小倉さんはその入会案内で次のように呼びかけている。

「サバンナクラブは、東アフリカが大好きな人が集まって、さまざまな交流をしている会です。東アフリカに何回も通っている会員も多く、サバンナの風景や野生動物について、いつも熱く語り合っています。これから東アフリカへ行ってみたい人、現地のいろんな話を聞いてみたい人、大歓迎です。私たちの仲間になって、東アフリカで盛り上がりましょう」

私がサバンナクラブに入会したのは平成12(2000)年1月だった。2月に開催された例会に出席したとき、サバンナクラブ古参会員の阿部昭三郎さんが撮影された映像の素晴らしさに度肝を抜かれ、同じ年の8月、小倉さんにお願いしてケニアサファリに連れて行ってもらった。写真を趣味とする私にとって、サファリは被写体の宝庫のように思えたのである。

「アフリカの水を飲んだ者は再びアフリカの水を飲む」ということわざがあるが、まさにその通り。平成14(2002)年にも、ケニアサファリに出かけていった。

これまで世界中のいろんなところへ旅行してきたが、一旦アフリカの自然に魅せられると、人工的な建築や原色の広告が目につく都市には行く気がしなくなってしまう。そして同じアフリカでも、ケニアよりもよりワイルドさが残っているタンザニアに魅せられていった。平成18(2006)年には、ついに40日間のタンザニアサファリを堪能したのである。

リーダーの阿部さんに「明日は帰国だ」と告げられたときには、「ええっ? もう帰るの?」と叫んでしまったほどだ。そんな私は、さらにその翌年、再びタンザニアサファリに赴くことになった。

最近、東アフリカの国立公園や国立保護区ではサファリ客が増えたため、「原則オフロード禁止」、「野生動物に20m以内に近づいてはならない」などの規制が設けられている。むやみにフィールド内の入ると野生動物にもよくないという見地からである。自然動物の保護のためには仕方のない措置だと思う。

しかし、できるだけ自分の判断で動き、自分の感覚を信じて動物を探す“本物のサファリ”を体感したい私としては、率直に言って、このような規制に対しては残念に感じてしまうところもある。そのせいもあって、その後サファリからは少し遠のいているが、生きているうちにボツワナのオカバンゴなどへはぜひ行きたいと念じている。

平成20(2008)年6月、阿部さんから強い要請があり、サバンナクラブの事務局長をお引き受けすることにした。何度ものサファリで本当にお世話になったため、気持ちのうえで断り切れなかった、というのが正直なところだろうか。

その事務局長の仕事は、それなりに細かい実務作業を伴う。そのため、現職をお持ちの方に引き受けていただくには難しい面もあり、なかなか後任者を得られないという事態が続いていた。そこで平成26(2014)年、Hさんに事務局長代行をお願いした。もし私が倒れたら直ちに事務局長に就任するというお約束のうえに、である。いつまで続くかわからないが、命ある限り、あるいは誰かに「辞めてくれ」と言われるまで務めるつもりである。

第3章でも書いたことだが、「楽老のためにはキョウイクとキョウヨウが大切」、つまり楽しく老いるためには、「今日行くところ」と「今日用」がある生活が一番である。

したがって私は、隔月に開催される例会にはみな出席、会報の校正、発送作業にもみな出席。そして毎年秋に行うサバンナクラブ写真展にも毎日出席している。そしてお天気のよい日には、東松山CCへゴルフに行くことになっている。

こんな幸せ者は珍しいのではないか。最近、密かにそう思っている。

補遺-3.
東京陸軍幼年学校第46期生第3訓育班1号室

よわい88にもなると、溜まりに溜まった昔の写真や資料、書籍など、身辺の物を整理してみるかという気分が去来することがある。とりわけ厳しい夏を越えようとする初夏や、一つの冬を越えようとする師走の頃になると、そういう思いが頭をもたげるのだ。

そして今年(平成28年)の7月、梅雨も過ぎ去った週末のある日、私は整理と称して自室に山積みになっているダンボールの一つを開いてみた。

するとどうだろう、いささかカビの臭気を漂わせた写真の重なり中に、こんな写真が1枚、出てきたではないか。

私はしみじみ、74年前に撮られたその写真の時空へと、しばらくの間、耽溺してしまったのである。

PHOTOGRAPH

昭和17(1942)年4月、私たち11名は東京陸軍幼年学校第46期生第3訓育班1号室に配属された。スフ製の中学生の制服を脱ぎ、丸裸になったとき、目の前には模範生徒の田中長さん(44期生)も丸裸だった。「ふんどしはこのようにして付ける」という指導の下に、私たちも生まれて初めての褌をつけた。そして、純毛の軍服を身につけ一人前の軍人になった気分で本部前へ行き、記念写真に納まったのである。

前列右から植田弘、中村禎二、櫻井英司、森住弘、中段右は前村靖典、米田典夫、後列右から郡富士郎、菊池孝政、大柿一成、田中長模範生徒、野口信雄そして伊室一義である。やや右に傾いているのは極度に緊張していたせいだろうか?

そして昭和20(1945)年8月、日本の敗戦によって私たちは娑婆に放り出された。故郷伊賀上野の中学同級生は既に卒業していなかったし、マッカーサーが出した「軍学徒一割制限」という厳しい命令によって、私の進学もままならなかった。私ばかりではない。敗戦時に陸軍幼年学校や士官学校に在籍していた人間は、本来なら背負わなくてもいいはずの「重荷」を背負わされ、みんな苦労を重ねながら戦後を生き抜いてきたのだった。

この写真に姿を映ずる同期生たちもまた、食料会社、薬屋、製本機械業、高校教師、トキコ、医師、僧侶、三菱重工、農林省、八幡製鉄、安田火災とバラバラの仕事に就き、それぞれ国の復興を願って働いてきた。

この写真撮影から62年が経過した平成16(2004)年9月、私たちは「1号室の会」を開催し、この写真と同じ配置で記念写真を撮った。かつての第3訓育班1号室の空気感を再現しようという試みだった。

今回、その平成16年に撮影したはずの“再現写真”を探してみたのだが、ついに見つけることができなかった。フィルム時代の写真は全て検索できるようにファイルしてあるのだが、デジタルカメラになってからは、保存時に将来の検索可能性を考えておかないことには、過去の写真を探すのに意外に骨が折れることが判明した。

その代わりにと言っては何だが、前年の平成15(2003)年9月に開催した「1号室の会」の写真が出てきたので、ここに披露しておきたい。前列右から野口信雄、植田弘、田中長模範生徒、大柿一成、菊地孝政、後列右から伊室一義、郡富士雄、前村靖典、中村禎二、森住弘である。

PHOTOGRAPH

この「1号室の会」は毎年続けてきたが、今年(平成28年)の出席者は私を含め田中さんほか3名となった。現在、生存者は5名である。時はまさに移り行く。

補遺-4.
本社ビル空撮から得たインスピレーション!
それはまさに「ボクらの城」だった。

身辺整理をしていて見つけたものが、もう一つあった。

平成4(1992)年、私は新宿副都心の安田火災本社ビルをモチーフにした一編の歌詞をしたためたのだが、その原稿がそのまま、資料のファイルから出てきたのである。結果的には曲を付けてくれる人もいなかったその歌詞だが、いま読み返してみると、実に懐かしいものと再会したという思いが募る。

歌詞の中身は、昭和51(1976)年に新宿副都心の本社ビルが完成に至るまで、私たち社員と当時の三好武夫社長が、いかに損害保険という業務に汗をかいてきたかという歴史を下敷きにしている。おそらく私が表したかったのは、三好社長の先駆的な経営手腕と、それに付き従う私たち社員(つまり「ボクら」)との一体感が、あの優美な姿を持つ本社ビルに結実したのだという誇りだったように思う。

実はこの歌詞は、平成元(1989)年7月に本社ビルを空撮した際、新宿副都心上空を飛ぶセスナ機の窓越しに本社ビルを目の当たりにし、強烈なインスピレーションを得て着想したものだった。 そのとき私は、ライカM6のレンズを本社ビルの勇姿に向けて夢中になってシャッターを切っていた。しかし同時に、かつての三好社長の薫陶を受けながら私たち社員が奮闘してきたさまざまな光景が、熱い思いとともに、カットバックのように脳裏に映し出されていたのだ。

この空撮の3年後、Y-TECの社長を退任し、安田火災ローン総合サービスの社長に就任したことを一つの節目と感じ、空撮のときの思いを何か言葉にして残したかったのだと記憶する。いまとなっては、ただ懐かしいだけの言葉の遊戯のようなものだが、ご笑覧賜れば幸いである。

PHOTOGRAPH

ボクらの城  1992.5.15
伊室 一義

むかし むかし ボクらの城はまぼろし城
銀行のなかに間借りして ボクらは仕事をしてたんだ
狭くて暑くて匂うので 戸棚の上から扇風機
小田原から通うS君の 帰りが夜行の「大和号」
「それ11時だ 船が出るぞー」 それまで毎日残業さ
むかし むかし ボクらの城はまぼろし城
間借りの悲しさ部屋の予約が取れなくて
おかげで鳳軒おおとりけんが会議室
課長さんの大好物はトンカツさ
むかし むかし ボクらの城はまぼろし城
すぐ目の前のD証券 モダンな造りのガラス張り
そいつがヤケに光るので
眼の毒 気の毒 ふぐの毒
むかし むかし ボクらの城はまぼろし城
別館出来たが本館出来ぬ 家主さんのご都合で
その別館が壊されて
落ち行く先は虎ノ門
むかし むかし ボクらの城はまぼろし城
西松 天徳 森ビルと
離れ離れで幾星霜
とうとう鰻の寝床に潜り込み
むかし むかし ボクらの城はまぼろし城
淀橋の浄水場に入札と 聞いてボクらは魂消(たまげ)たよ
スケールでっかい社長さん 超高層にチャレンジ!
一度にお金が払えずに 5年割賦でごめんごめん
新宿が新都心だなんて言われても
なかなかピンと来なかった
ボクらの城を建てるには 自動車保険が鍵なんだ
これを軌道に乗せるため 必死にみんな頑張った
辛いこともあったけど 夢があるから苦にならぬ
そのうちツキも味方して 成績上がりロス下がり
とうとう自賠も日本一
ボクらの城が出来るのを ああ15階 ああ30階と数えたよ
だんだん伸びて雲のなか
あの屋上の大クレーン 降ろすときにはどうするの
ビルがあんまりでかいので テナント一体どうするの
余計なことまで心配する 世に凡人の議論尽きまじ
ボクらの城が出来たなら
安田火災とそのグループで使うのだ
社長さんの鶴の一声ユニークさ
テナントで多少家賃を稼いでも後で立ち退き迫れない
自分のビルは自分らで 満杯にすりゃーいいんだよ
お前らしっかり頑張れと 嬉しいネジを巻かれたね
ボクらの城が出来たとき
ふっかふかの絨毯に 思わず靴を脱いだっけ
ずらりと並んだエレベーター
どいつに乗ったらよいのやら
勝手分からず右往左往
ボクらの城は超高層 遠くに筑波の山が見え
新宿御苑が前庭で 東京湾が泉水さ
ミニチュアのくるまがスイスイ滑る
千万都市を一望に
ボクらの城は防災ビル
どんな地震が起こっても このビルこそは大丈夫
「タワリング インフェルノ」の映画見て
火災の怖さにひるんだが ボクらの城は大丈夫
あらゆる備えは世界一
ボクらの城に美術館
日本 アメリカ ヨーロッパ
世界の名画を見たければ チョイとエレベータに乗ればよい
元気を出させるゴッホの「ひまわり」
ボクらの城は美人だよ 肌がきれいで八頭身 パンタロンがよく似合う
東に向かって颯爽と 美男のフレンド従えて
ボクらの造ったお城はね 単なるビルではないんだよ
それはね みんなの汗の結晶
それはね 熱情溢れる金字塔
それはね 未来に伸びる夢の架け橋